アメリカ 2019
監督、脚本 ジョーダン・ピール

自分とそっくり同じ顔をした人間に襲われる恐怖を描いたスリラー。
まあ、普通に考えて、ドッペルゲンガーかな?と、みなさん見通しをつけるんじゃないかな?と思うんですけど。
この作品が安易な予測を許さなかったのは、そのドッペルゲンガーとおぼしき人間が家族単位、しいては街単位で存在してたこと。
もう、同じ顔した連中が×2でうじゃうじゃ居やがるんですよ。
で、その全員が同じ自分を嫌悪してる、ときた。
さて、受け止め方は様々かと思うんですが、私の場合、シンプルに「なんじゃこれ?」と思った。
このシチュエーションを、怖がるべきなのか、驚くべきなのか、自分の中に適合する感情が見当たらない。
「なんか変」なだけなんですよね。
物語中盤、街は暴徒であふれ、無法地帯化しちゃってるんですけど、ドッペルゲンガーvsオリジナルの戦争を、どこに焦点を合わせて見ればいいのか、よくわからない。
なんか壮大な内輪もめを見せつけられてるみたいな。
同族嫌悪の最もたるものをマクロ化してるのか?と考え込んだり。
例えばこれが、一人のドッペルゲンガーに主人公が翻弄される、とかだったらまだ「怖い」という感情も喚起された、と思うんですよね。
ゾンビ映画並にうじゃうじゃ登場させられちゃあ、どうしたってコントっぽくなっちゃうし、笑わせたいのか?と勘ぐりたくもなる。
というか、収拾つくのか?と。
かなりの奇手だと思うんですよ、プロットそのものが。
で、肝心のオチなんですけど、はっきり言って、なんだかなあ、って感じです。
もちろんこれが現代アメリカの抱える貧困問題を暗喩してることは理解できますよ。
でもね、少年漫画じゃないんだからね、膨大な資金を必要とするであろうことを政府が主導して、その後ずっと放置してた、ってありえないと思うんですよね。
一人や二人の話じゃないんだからね。
これが表沙汰になった日には人権問題で大変なことになる、ってバカでもわかる話ですし。
見た人なら、私が何を言わんとしてるのか、わかってくれると思うんですけど。
前作、ゲット・アウト(2017)で、私が唯一残念と思った三文SF的発想が、よりにもよって核心に触れる位置でのさばってる感じでしたね。
なんだか中途半端なダークファンタジーみたいだなあ、と。
そういう意図は決してなかったんでしょうけど。
一応ね、最後に、あっと言わせるどんでん返しは用意されてます。
けどこれもいうなれば付け足しというか、サービスみたいなものだと思いますし。
結局のところ、監督がHands Across Americaに感じた不気味さ、気味悪さを多くの人と共有すべく、壮大な物語をでっち上げたはいいが、あんまりうまくいってない、というのが実状じゃないかと。
うーん、ゲット・アウトの恐るべき演出力、構成力はどこへ行った、ジョーダン・ピールよ。
私はあんまり評価できないですね。