アメリカ 2020
監督 パティ・ジェンキンス
脚本 パティ・ジェンキンス、ジェフ・ジョンズ、デイブ・キャラハム
ワンダーウーマン(2017)の続編。
「1984」と副題がついてますが、前作が第二次世界大戦の最中でしたんで、過去の出来事ながら時間軸の上では順当に「その後」を描いてる、という設定。
全く年とってないですけどね、ワンダーウーマン。
一作目が20歳前後だったとしたら、普通に歳を重ねて60歳超えてるはずなんですけど、相変わらず若々しいままです。
そういう体質だったっけ?この人?
うーん、全く覚えていない。
で、肝心の内容なんですが、今回は「どんな願いをも叶える石」を手にした男の野望を食い止めるために戦う彼女が描かれてまして。
ま、正直なところ、国家間の戦争にすら介入しかねない勢いだった(介入しなかったけど)前作に比べると、なんだかこじんまりしちゃったな、というか、インディ・ジョーンズみたい、というか。
1984だからといって、ネタまで80年代風にしなくていいんだよ、と少し思ったり。
核となるプロットが、昔の子供向けファンタジーっぽいというか、既視感強いのは確かです。
特に私が気になったのは「願いを叶える石」のルール作りが曖昧というか、後出しジャンケンっぽい点。
実は「猿の手」と同じ(願いを叶えるための代償が必要)だと言ってみたり、あとから願いを取り消す事が可能で、全てをなかったことにできると言ってみたり。
それが石の神秘性を盛り上げる働きを見せてくれてたら問題ないんですけどね、物語が進むにつれて、「なんだよ、結局なんとでもなりそうじゃんかよ」と思わせる一方だったんで、こりゃ話にならんな、と。
この手の映画って、クライマックスで「その手があったか!」と思わせなきゃ駄目だと思うんですよ。
けど、石の法則性そのものに厳格さがないから、一番盛り上げなきゃいけない場面で「なんだかよくわからないけどワンダーウーマン手が出ない」みたいな状態に陥っちゃってるんですよね。
さて、ワンダーウーマンは最後の最後にどうやって男を止めたか?
ネタバレになっちゃうんで詳しくは書けないんですけど、実力行使(暴力沙汰)に頼らないなら、最初からガンジーみたいに非武装で無抵抗主義を志せよ!とあたしゃ思わずつっこんだ。
もうね、クサいのにも程があるわけで。
人の性善性を疑わず最後まで信じるのは自由だけど、それって超人的なヒーローの存在(ワンダーウーマン)自体を全否定することと同義だよ?と私は思うわけです。
ダイアナ(ワンダーウーマン)の儚い恋を同時に描こうとしていたのも、うまくいってるとは言い難い。
普通なら劇中の二人の恋の行方が、どう考えても涙腺爆発もののシーンにならなきゃおかしいはずなのに、なんだか可愛がってた子犬をもう飼えないから公園に置き去りにしていく、みたいな演出になってて。
二度と叶うことのない夢を再び捨て去ることになる苦痛、悲哀、絶望がその一瞬に全部渦巻いてる、と感じさせるほどの作劇を監督は用意しなきゃならなかった。
というか、この映画の最大の見せ場は間違いなく「そこ」でね、「そこ」さえ成功してたら、つまらん石の安っぽい三文ダークファンタジーとか(主筋だけど)、全部目をつむることも可能だった、と私は思うんです。
物語のどのパートを重要視するのか、正しい労力の配分を見極めることもできんのか、と。
あと、ド派手な無重力戦闘はともかくとして、アクションシーンのポージングが相変わらずダサくて。
誰が主導してるのかわからないですけど、なんだかもう70年代の特撮ヒーローものレベルで古臭いんですよね。
それがワンダーウーマン自身を、勘違いしてるコスプレ女みたいに見せてしまう瞬間もあって。
ガル・ガドットという一流の素材を起用しながら、彼女をかっこよく撮ってやることすらできんのか、と。
素の彼女(ダイアナ)の方が見惚れるほど美しくて、変身して大立ち回りを演じるとどこかダサいって、どうなんだ?って。
私は前作の感想で「興行成績に気を良くしてこれでよし、と思ってるなら次はきっとボロがでるぞ」と言い放ちましたが、その通りになったな、と思いましたね。
ヒットしたのかどうか知りませんが、パティ・ジェンキンス監督がメガホンを取る制作陣で次作も作るなら、もう見ることはないな、と。
ファンには申し訳ないですが、これで2時間31分とか、私にとっては苦行でしかなかったです、はい。