フィンランド/ドイツ/スウェーデン 2016
監督 ユホ・クオスマネン
脚本 ユホ・クオスマネン、ミッコ・ミッリラフティ
世界戦を目前に控えたボクサーが、恋した彼女に入れ込みすぎて、すっかりボクシングに集中できなくなってしまう様子を描いた、妙なラブロマンス。
さて主人公のオリ・マキですが、フィンランド初の世界タイトル挑戦者ということで、大きな注目を集めてます。
本来なら、試合に向けて、入念なトレーニングを重ねなきゃいけない時期なのにも関わらず、狂騒状態のマスコミや、金の匂いに群がる連中に振り回され続けてる。
トレーナーやジムの会長は何をしてるんだ?と思うんですけど、なぜか外部の雑音から主人公を守るべき立場の人間が、誰も居ないんですよね。
一応、モデルとなってるのは1960年代に活躍したフィンランド実在のボクサーらしいんですけど、当時は業界もこんな感じだったのかなあ?と。
フィンランドのボクシング事情なんて全く知らないんで、なんとも言えないんですけど、マネージャーについてる元ボクサーですら、非協力的なオリ・マキに渋い顔をする始末ですしね。
いや、逆だろう、と。
お前が守ってやらんかい、と。
ボクシング興行そのものが、まだ世間に広く認知されていなかった時代の混乱と考えれば納得できなくもないんですが、どちらにせよこんな状況でタイトル奪取するには鉄のメンタルと強靭な克己心が必要だわ、と私なんかは思った。
ただ、そういう状況下におかれていなかったにしても、主人公、こいつ大丈夫なのか?と思わせる危うさはあるんですけどね。
というのもオリ・マキ、もうとにかく彼女であるライヤに側に居て欲しいタイプなんです。
彼女自身が「私は何もできないわよ」と言ってるにも関わらず、遠征先のジムにまで「居てくれるだけでいいからついてきて」とお願いする。
しかもですね、あまりに場違いですることがなくて、いたたまれずに彼女が帰ると、本人、俄然落ち着きをなくし、勝手に彼女を追いかけて故郷に帰ってしまったりするんですね。
いやいやいや世界タイトル戦ーん!国中が注目してるから!おいこら、なにやってんだ!とあたしゃ思わず画面に向かってつっこんでしまった。
物語の構図は、みなさんおっしゃってるようにほぼロッキー(1976)なんですよ。
無名のボクサーが、百戦錬磨の黒人チャンピオンに挑む図式なんてまさにそのまま。
普通なら、ラストシーンはどう考えたって「エイドリア~ン!」ですよね。
実際、多くの後発なボクシング映画はこのパターンを踏襲してますし。
彼女も会いたいのを我慢して、悲願のためにあえて主人公を突き放す場面があったりとか、ね。
もー、全然違いますから。
基本、ライヤはあんまりボクシングに興味なさそうですし。
「私はあなたになにも期待してないわよ」とか、大勝負を目前にひかえた彼氏に向かって平気で言い放ったりする。
どんなドSな鬼嫁か、って話だ。
ま、額面通りにうけとっちゃいけないセリフなんでしょうけどね。
オリ・マキも、試合よりライヤとの恋愛事情のほうが大事そう。
ま、受け止め方は人それぞれかと思うんですけど、私は終盤ぐらいで「もうボクシングやめちまえ」と思った。
ほんの一握りの限られた人間にしか与えられないチャンスをないがしろにしてまで彼女の尻を追っかけたいなら、趣味でボクササイズでもやってなさいと。
でもって、物語自体も、なんともなまぬるい落とし所でもって幕を閉じます。
なんだこれ、最初からボクシングに向いてなかった人が、個人の幸せを追求して多くの人の期待や支援を平気で裏切っただけのお話じゃねえか、と。
びっくりした。
これが毒のあるコメディだ、ってならまだわかりますけど、割と真面目にやってますしね、この作品。
わざわざ16ミリフィルムで撮影して60年代のモノクロな質感を再現しようとしてますし、多分監督が意識したのはヌーヴェル・バーグであり、その後続なんでしょう。
申し訳ないけど高い志とは裏腹に、なんのアイロニーにも定石崩しにもなってないから。
感動大作にすべき、とはいいませんが、これを「人生で最も幸せな日」と言い切ってしまうナローパスな感覚に私はついていけませんでしたね。
もう、勝手にやって頂戴、みたいな。
ちなみにモデルである実在のボクサーは試合中の事故で亡くなり、フィンランドではその悲劇が現在でも語り継がれているようです。
もしかしたら・・・ですけど「彼は決して不幸だったわけじゃないんだ」とした鎮魂歌的意味合いがこの作品には込められているのかなあ、と少し思ったり。
けど、それも作品の背景を知らないことは想像しようもないことですんで、評価に加味することはなかなか難しかったりしますけどね。