スウェーデン/アメリカ/フランス 1986
監督、脚本 アンドレイ・タルコフスキー
ソビエト連邦(旧ロシア)の巨匠、タルコフスキーの遺作。
ある日突然、核戦争が勃発したとの知らせを受けた大学教授の男と、その家族の一日を描いた作品。
えーあらかじめ宣言しておきますが、私はタルコフスキーが苦手でございます。
惑星ソラリス(1977)をVHSの時代に見て、耐えきれず途中で寝る、を三度繰り返した男でして。
なんせ映画のラストシーンにたどり着くまでに3日ぐらいかかったからね(もちろん途中で寝たからだけどね)。
面白かったのかつまらなかったのか、記憶がブツ切れでさっぱり判別つかないというね。
なんで日本の高速道路が映ってたんだろうなあ・・・などとバカみたいな感想しか抱けずにいましたから、当時は(バカだったんだね、うん)。
満を持して数年前に、このままじゃいかん!とストーカー(1979)を見たんですが、これがねえ、眠気を堪えることには成功したものの、とても手放しで面白い!と絶賛できるような内容ではなくてですね。
いや、絶賛してる人はたくさんいるんですけど、私にはその気持がさっぱり理解できんと言うか、どうかしてるんじゃねえのか?と思えた(ああ、ごめんなさいすいません)というか。
やっぱりね、誰がなんと言おうと単調で変化に乏しい長回しが眠気を誘うのはどうしようもない事実だと思うんですよね。
人間の集中力にも限界がある、って話ですから。
この人、平気で10分ぐらい同じ画角、構図で長回ししたりしますからね(ちなみに本作もタイトルロールですでにやらかしてます)。
いかに絵画的だろうが美しかろうが写真のコマ送り見てんじゃねえんだぞ!って。
しかもそれが人物の判別がつきづらいロングショットだったりしますから。
今回、ようやく気づいたんですけど、タルコフスキーはびっくりするぐらい役者をアップで撮らないですよね。
他の作品でも同様なのかは知りませんが、甲子園のホームベース側二階席からレフトの選手に声援送ってるぐらいのレベルで人物を小さく撮る(全身をフレームにおさめようとしてる?)。
ひょっとしたら舞台演劇的な見せ方を意識してるのかもしれませんけど、なにぶんタルコフスキーのことを詳しく知らないもんでさっぱりその意図がつかめない。
あと、やたら観念的で抽象的な台詞回しも相変わらず。
だから結局何が言いたいんだよ!とイライラしてくること請け合い。
禅問答やってんじゃねえんだよ!っつーかね。
で、つまるところ私がもっとも脱力したのは、これだけ遠回しにあれやこれやと益体もない会話劇で時間を稼いでおきながら、いざ終わってみれば宗教映画にも近しい仕上がりだったこと。
サクリファイス=献身ってか。
自分で勝手に島に引きこもったくせに、うだうだ世の中に文句言ってる役立たずのインテリゲンチャが、自分には価値があるんだ、俺は本当はすごいんだと必死にアピールしてるような物語でしたね。
でも結局大衆は無理解なんだ、救世主ですら道化だと誤解されてしまう世の中なんだ、とでも言いたげなエンディングを含めて鼻持ちならん映画だったな、と。
ただ、最後のシークエンスが、見ようによってはコントのようにも感じられる体を張ったドタバタだったので、ひょっとしたらタルコフスキーはすべてを俯瞰していて、主人公のエリート意識が肥大した巨大な自我を嘲笑ってたのかもしれませんけどね。
そりゃ、ないか。
どちらにせよ、よほどの映画マニアか、時間がたっぷりある人じゃないとついていけない作品だと思います。
とてもじゃないけど若い人に勧めたりなんかは出来ない。
全部が世迷い言で妄想、と言い切ってしまうことも可能だもんなあ。
でもって、この映画に出てくるようなキャラはことごとく現在においては成立しないと思うんで。
よほどのジャンル映画でもない限り。
なにもかもが難しいな(色んな意味で)・・・というのが正直な感想。
スローシネマの源流は確かにこの人だな、と再認識できたことだけが収穫でしたかね。
うん、ソビエトから亡命してもタルコフスキーはタルコフスキーのままでございました。