トーク・トゥ・ハー

スペイン 2002
監督、脚本 ペドロ・アルモドバル

トーク・トゥ・ハー

不慮の事故で昏睡状態に陥った愛する女性アリシアを、甲斐甲斐しく介護する看護師ベニグノの数年間を描いた恋愛ドラマ。

さて、この映画がややこしいのは、アリシアにとってベニグノは見ず知らずの男性である、という点。

勝手にアリシアに惚れて、勝手に進んで看護をかって出てるんですよね、ベニグノは。

もちろん周りの職場関係者はそんなこと知りません。

知っているのはベニグノと友人関係にあり、同じく昏睡状態の彼女を前にして悲嘆に暮れるマルコだけ。

状況だけで判断するなら、とんだストーカー野郎で、ネクロフィリアもどきなわけです、ベニグノは。

これを受け入れられる人って、なかなか居ないと思うんですよね。

私がもしアリシアの家族なら、いかにベニグノが「報われなくていい、ただ彼女の世話をしたいだけなんだ」と真摯に訴えかけたとしても、到底介護のすべてを任せるなんて決断ができようはずもない。

たとえベニグノが聖職者でゲイ(本人は病院上層部の追求をかわすため、同性愛者だと公言している)だったとしても、許可することはできない。

男のどうしようもなさは男が一番良く知ってるし、なにより「介護」という仕事に「私情」を挟むことになりますからね。

私情を挟んで仕事がうまくいく試しなんてないわけで。

そもそもですね、おそらく親族から許可されることはないであろう行為を、嘘をつき、欺いてまで自分の仕事にしてる時点でクソ野郎なわけです。

純愛を気取るなら、正面突破してこい、と。

偶然籠の中に飛び込んできた傷ついた小鳥を、動けないのをいいことに閉じ込めていじくり回すのが愛情ですか?と。

単なる執着でしかないですよね。

で、そんな物語の前提を踏まえてですね、さらにややこしくなるのが後半の展開でして。

アリシア、妊娠しちゃうんですよね。

ほら、見たことか!と。

結局そういうやつなんだよ、ベニグノは!と多くの方が吐き気をもよおしたことでしょうし、実際、とても許容できない、という感想も多数見かけるわけですが、実はここにアルモドバルが仕掛けた最大の罠がありまして。

私も最初はなんて気持ち悪い映画だろう、と思ったんです。

しかしよくよく考えてみるとですね「アリシアを妊娠させた犯人はベニグノである」という決定的な描写が、作中のどこにもないような気がしてきまして。

さかのぼって確認してみましたが、やはり「犯人である」と監督は言いきってない。

そう思わせるシナリオ構成で観客をリードしてるだけなんです。

だとすると、話はまるで違ってくる。

中傷され、蔑まれようとも、誰かの罪を背負い、その身を挺する男の「奇異なる愛」を描いた物語、ということになる。

その裏付けだと思えるのが、友人であるマルコの行動。

マルコは同じ昏睡状態の彼女を前にして、どういう決断を下したか?これがベニグノの行為に対する反定立となってるんですよね。

確信は持てませんが、私の考えたとおりだとするならエンディングは衝撃的です。

世間のモラルや常識に縛られることをどうしても受け入れられない男が、最初から振り向かれることなどこれっぽっちも期待しないまま、ただ全身全霊をつくして己の身を捧げたお話になってしまう。

ま、その内面を推し量るのはなかなか難しいものがあるんですけどね。

なんとも問題作。

しいていうなら「いびつな聖性」とでも表現するべきか。

一貫して壮年の女性に対する人生讃歌みたいな映画をたくさんとってきたアルモドバルが、ここにきてなんか本気出してきた気がしますね。

監督自身がゲイであると公言していることを鑑みるなら、この作品の奥底に隠されたメッセージ性に私はひどく納得するものがあったりしました。

完全に解き明かすためには再度見直す必要があるかも知れませんが、額面通りの映画ではない、と私は思いますね。

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