セールスマン

イラン/フランス 2016
監督、脚本 アスガー・ファルハディ

セールスマン

はて?何故この映画のタイトルがセールスマンなんだろう?というのが見終わって最初に思ったことでしたね。

主人公夫妻は劇団員で、ダンナの職業は教師ですし。

他の登場人物にセールスマンがいるわけでもない。

劇中劇として、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」が演じられてますが、だから「セールスマン」なんだ、というのもおかしな話ですし。

そもそも「セールスマンの死」自体が物語とどう関わってるのか、私にはよくわからなかったんですよね。

老いたセールスマンの苦悩と焦燥を描いた舞台劇が、落とし所としてこの物語の核心や真相に触れている、とも思えなかったですし。

なにかを隠喩してる風でもなかったですし。

描かれているのは、自宅に侵入し妻をぶん殴った暴漢を、誰の手も借りずに一人で追い詰めようとするダンナの復讐劇。

劇中劇が何を意味するのかを脇に置いておくなら実に見応えがあった、と言っていいでしょう。

イランという国の抱える諸問題をなにげに顕在化させながら、その犯人の正体が暴かれる終盤までの展開は、夫婦の気持ちのすれ違いや、行き場のない憤りを、丁寧に彼の国の日常と交錯、描写していたように思います。

犯人とダンナが対面するクライマックスの息詰まるやり取りもいい。

悪いのは犯人に決まってるんです。

けれど、罪を犯したからと言って、それを容赦なく責めることのできない不条理感がね、加害者を逆転させて見せるんですよね。

ああ、これはイランにおけるイスラム文化の矛盾、抑圧された社会の歪みを見事に皮肉ってるよなあ、と私なんかは思った。

同郷の映画監督であるジャファル・パナヒと同等、もしくはそれ以上の毒を含んでる、と思うんですけどね、イスラム文科省の検閲部門の人間は気づかないんでしょうかね。

ま、おそらく私はこの映画のすべてを読み解けてないんだと思います。

本筋でここまで精緻かつ巧妙な物語作りを見せつけているファルハディ監督が、意味なく劇中劇として「セールスマンの死」を引用するとは思えない。

イランという国をもっと深く知る事ができれば、いつかは解釈の糸口もみえてくるのでは、と思ったりもします。

唯一、とっつきにくいと思われる点をあげるとするなら、カメラワークの単調さ、抑えた演出のもたらす淡々とした語り口、でしょうか。

それが見る人によっては124分を間延びして感じさせるかもしれない。

でも、それこそがファルハディの手法なんでしょうけどね。

唸らされる内容ではあった、だがある意味まわりくどい、というのが正直な感想。

うーん、なんか歯切れの悪いことしか書けんなあ、この作品、すまん。

面白かったんですけどね。

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