アメリカ 2004
監督 ミシェル・ゴンドリー
脚本 チャーリー・カウフマン
映像表現に惑わされちゃうと、なにかと煙に巻かれそうになりますが、実はこの作品のストーリーって、至極単純であるように私は思うんですね。
まず前提として、記憶を消せる医者が存在する、と。
そこに記憶を消して欲しい、と依頼した倦怠期のカップルが居ました、と。
物語は「男性側の記憶を消していく過程を可視化してみました」で、実はすべてなんですね。
意外性のある脚本で定評のあるカウフマンにしちゃあ、それほど目新しさも奇抜さもないように思えた、ってのが正直なところ。
そもそも記憶の消去、と言うアイディア自体がSFの世界では古くから形を変えて流用されてきたネタですしね。
あえて使い回されたネタを引っ張り出してきた割には色恋沙汰一本槍、というのも想像性に乏しいように思いますし。
言うなれば、彼と彼女の痴話げんかの顛末~ちょっとSF風味、でしかないわけです。
本質的なところに触れてしまうなら。
ただ、それらを踏まえて作品を思い返してみて、でもやっぱりなんか切ないよな、この映画、と思ったりはする。
これ多分、忘れていくこと、失われてしまう瞬間を、映像に切り取ろうと考えたがゆえの産物だと思います。
虚実入り混ぜて悲喜こもごも、それら全てがおぼろげに消えていく過程って、ある意味正しい心の作用ながら、誰もができれば取捨選択したい、と考えていることだと思うんですね。
いうなれば老いそのものの具象化。
それを進んで受け入れたい、と言う人はなかなか居ないでしょう。
ましてやそれがこの作品のように恋人との楽しい時間の記憶であってすら、そこに強制性が働くとなると、どうしたって過剰に感情移入してしまう。
美しくも素晴らしかった時間の回想を、流れる走馬灯のように見せられている気分になるんですよね。
また、ゴンドリーがうまいんですね。
ミュージックビデオで馴らした手管をこれでもかと映像に放り込んでくる。
なくしてしまうことの感傷を切々と描く上で、驚きと瞬発力をも兼ね備えるというテクニカルなことをやらかしてると私は思うんです。
ちょっとずるいな、これ、と感じたりもするんですが、映画でしか表現できない行間の哀歓があったのは確か。
シナリオのシンプルさを、監督の才覚と切り口の独特さでひっくり返した好例でしょうね。
ジム・キャリーの抑えた演技も素晴らしかった。
ゴンドリーが映像作家としての自分を確立した記念碑的秀作と言っていいんじゃないでしょうか。
あのカウフマンが食われてるな、と思ったりもしましたね。
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