アメリカ 2015
監督 ジャン=マルク・ヴァレ
脚本 ブライアン・サイプ

妻を不慮の事故で失った男の、これまでの自分を見つめなおす日々を描いた作品。
私が独特だなあ、と思ったのは、妻が死んでも一向に感情を揺さぶられず、涙ひとつこぼれてこない自分を懐疑的に思うところから物語が幕を開ける、という序盤の立ち上がり。
だいたいこの手のパターンの映画って、絶望の淵に追いやられた人間が、いかにもう一度歩み出すためのきっかけを見つけるか、に主題が置かれがちですよね。
いわゆる人間讃歌的な。
そこを全く逆手に取ったことが、作品に奇妙なリアリティが生じさせていたように私は感じてて。
ある程度年配の方はみなさん納得してくださるでしょうけど、夫婦なんてのはそれなりの年数を一緒に過ごしゃあ、どうしたって互いの関係性に倦怠がつきまとってくるものですから。
何年たっても二人はラブラブ、なんて間違いなく少数派だと思うんですよ。
少数派だからこそ映画の題材として恰好なわけで。
一途にただ一人の人だけを想い続ける、なんて現実だとかなりの希少事例なのをみんな知ってる。
こういう風にありたいと願う「羨望」なり「あこがれ」なりの感情が感動を呼び起こすんであって「すまん、なんか知らんが妻の死にピンとこない」じゃ、テンションの上がりようがないのは間違いない。
どこか悪いのか?心の病?って邪推するのがせいぜいなとこ。
そこはドラマとして冒険してる、と素直に思った。
ただ、そんな身も蓋もないあけすけな心情に「そういう気持ちも少なからずあるかもしれない」と、我が身を振り返った人も実は割といるんじゃないか、と私は考えたりもしていて。
私の中にだってそんな気持ちが全くないとは言い切れない。
妻とはそれなりにうまくやってて、特に問題も抱えていなかったはずなのに、なぜか感情が揺さぶられない自分。
これって、夫婦は互いに慈しみ、末永く愛を誓い合うもの、みたいな良識に囚われた結婚観に対する反定立なのでは、とちょっと思ったりもする。
で、そこからなにが導き出されているのか、ってことなんですが「愛情というのはすべてを押し流す激流なのではなく、もっと複雑な心のメカニズムなんだよ」と作品は訴えていたように私は思うんですね。
秀逸だと感じたのは、すべてを理解していたわけじゃない、けれど愛は間違いなくあった、ってことを「気づき」として、最後に提示してみせたこと。
それが妻の裏切りを知った上での答えだったことが、なんとも深い。
愛という不確かなものの普遍性について哲学してみせた、といってもいいように思いますね。
全く先の予測がつかないドラマ作り、特にナオミ・ワッツ演じるカレンとの交流を軸に持ってきたシナリオもお見事。
わかりやすさに拘泥しない大人向けの一作でしょうね。
なにが主人公を惑わせて、なにが男の心を不感症にしていたのか、そこに思いを馳せることで、また色合いが違って見えることもこの作品の非凡な一面だと思います。
ジャン=マルク・ヴァレ、ここまでやれる監督だったのか、と脱帽です。
若い人はとっつきにくいものを感じるかもしれませんが、私はありきたりな落とし所を用意して「良し」としなかった点を評価したいですね。