アメリカ 2015
監督 ロビー・ピカリング
脚本 オーレン・ウジエル

エイリアンが地球に攻め込んできてさあ大変!ってなときに、立ち向かえるのはハイスクールボーイと女吸血鬼とゾンビだけだった、という奇想天外なプロットに惹かれて見てみたんですが、ああライトノベル。
しかもかなり安い部類。
いや、ライトノベルそのものを否定しているわけじゃあないんですよ、一応念のため。
中高生が気軽に楽しめる小説として、活字への入り口として、ライトノベルの存在はとても重要だと私は思ってます。
でもいい年したオッサンがライトノベルに夢中になってたらやっぱりキモいし、変だし、軽く人格疑われますよね。
まさにこの映画って、私にとってはそういうポジショニングにあると言っていい。
まずね、なにがライトなのか、と言いいますとね、なんの背景も描かれることなく、その成り立ちに言及することもなく、ゾンビと吸血鬼と人間が共生している世界があります、ってのが物語の大前提としてあることなんですよね。
ゾンビも吸血鬼もみんなまとめて一緒に高校へ通ってたりしやがるんですよ。
もうこの時点でやってることはほとんど「うる星やつら」。
なので、エイリアンが攻めてこようが地球が縦に割れようがもうどうでもいいわけです。
スタート地点からして言ったもの勝ちのなんでもありなわけだから。
ま、百歩譲ってそれはそれ、と納得したとする。
その前提でなにができるのか、って話ですが、残されてる路線はSFモドキなコメディしかないですよね、どうあがいたところで。
はからずもこれって日本のオタク文化における、お家芸なわけですけれど。
で、その場合、重要になってくるのがいかにキャラクターを立たせるか、という点。
例えば、ラムちゃんなら電撃放つやきもち焼きで、忍なら怪力で、面堂終太郎なら金持ちの閉所恐怖症みたいな。
作り手は、やはり主人公なり吸血鬼なりゾンビなりに、それぞれの特性を活かしたキャラ付けをもっとじっくり丁寧にこだわってやるべきだった。
別段ゾンビや吸血鬼である必要が無いんですね、この描き方だと。
普通の高校生3人組でもさほど問題ない、というか。
さらに痛かったのが、安直な融和路線にお話を持っていこうとしているところ。
ゾンビも吸血鬼も人間も同じ地域に暮らす仲間じゃないか、みんな手を取り合ってエイリアンに立ち向かおう、って、まさかこの展開に人種差別云々アイロニー云々を透かして見る人はいないとは思うんですが、もうね、道徳の教科書レベルの陳腐さしか香ってこないです、これ。
一言で言うならすべてが幼い。
そこには笑いに対する貪欲な希求も、リアルを足蹴にデタラメをやらかす挑戦心も見当たらない。
大風呂敷な割には全然たいしたものが包まれてない状態とでもいいますか。
言葉は悪いんですがやっぱり子供だましなんですよね。
一応ストーリーの流れに、それなりに見せ場もあれば、ささやかなラブロマンスもあったりするんですが、それを楽しめるのはせいぜいティーンまでだろうなあ、と私は思います。
唯一私がおおっ、と思ったのはクライマックスのシーンで、ゾンビがあるものをキャッチするときに昔の光景をフラッシュバックさせた演出ぐらいですかね。
うん、大人は色々無理、というのが結論。
ただ、誤解してほしくないのは、これを中高生が見て、おもしろかった!と言うのを否定するつもりは私には一切ありません。
楽しめる年齢層が違う映画、突き詰めるならそれだけのことだったのかも、と振り返ってみて思ったりもします。