2025 アメリカ
監督 ポン・ジュノ
原作 エドワード・アシュントン

これはとんでもない場所に我々をいざなう映画かもしれん・・と構えていたが、全くそんなことはなかった
植民のため、人類が初めて訪れた惑星ニフルヘイムにて、人が生存可能なのかどうか試すために何度も死ぬことを強いられるコピー人間、ミッキーを描いたSF大作。
前提として「死んでも記憶や意識、人格を別の肉体に移植できる技術が成立している世界」という設定があります。
だが、倫理観の問題から、なかなか地球上では実現がむつかしい。
ならば他天体で、「人類のため」という大義名分のもと、このテクノロジーを利用しようじゃないか、というのが作中の権力者どもの発案。
もちろん被験体は自ら応募し、何度も生き死にを繰り返すことを納得済みなんですが、そんな風に主人公を追い詰めたのは、あながち本人のせいとばかりは言えないのではないか?といった問いかけが物語に込められていたりするわけですね。
パラサイト(2019)で格差社会の現実に切り込んだポン・ジュノらしいテーマ、といえばそうかもしれません。
ただ、本作の場合、主人公ミッキーの間抜けさというかバカさ加減が目立ちすぎる部分もあって。
やばい筋から金を借りて返せそうにないから、よく説明書も読まずに被験体に応募した、という適当さがすべての結果を招いてるんですよね。
あんまり暗くなりすぎないように・・との配慮から、あえてミッキーを少しおバカに描いたのかもしれませんが、正直これは失敗だった気がしますね。
のちのストーリー展開を勘案するなら、書類へは、借金取りの手で、無理やりサインさせられた、にした方が絶対盛り上がった気がします。
現状だとミッキーがあまりに阿呆で同情できない感じなんですよね。
ストーリーを追ってて、いや、これ、自業自得だし、と思う自分もどこかにいて。
実際、同じく借金取りに追われる相棒は、被験体に応募することなく宇宙船に乗りこめてるわけですし。
そんな感じの小さな失敗は他にもあって。
屠殺される家畜以上にたやすく死を強いられるミッキーに、なぜかグラマラスな恋人がいたりするんですよね。
で、この人、何度も死んでは復活するミッキーに、ずっと寄り添い続けるほど深い愛情の持ち主だったりする。
いやいや、もう何十回死んでも問題なくね?と思うわけです。
そりゃ死の瞬間は恐ろしいだろうけど、目を覚ませば最愛の人がいつも待っててくれるわけだから。
♪ love is all needかよ、って。
境遇は悲惨かもしれないけど、誰もが手に入れられそうで手に入れられないものをお前はもう手中にしてるじゃねえかよ、って。
死を強いられる実験動物たる男の非遇、に焦点を当てなきゃならないはずが、物語はどんどん共感しにくく浅薄な展開へと舵を切っていくんです。
終盤、重要な登場人物である第三の男が、突然特攻をかます筋立ても謎。
数秒前までそんなそぶりは全くなかったんですよ、それがいきなりだから。
いったい、いつお前はすべてを投げ出す決心をしたんだ?と疑問符が脳内を駆け巡る。
いや、この物語ね、仮にキューブリックやスピルバーグが撮ってたら(ノーランでもいい)、テセウスの船どころか自己同一性やアイデンティティーの問題にさえ言及する哲学的大作になってたのでは、と思うんですね。
必ずしも主人公の内面に深く踏み込んでいかねばならないわけではないと思いますが、せっかく「終わらぬ死を繰り返す男」という強烈な題材を引っ張り出してきたのに、それをこんな風に飄々とまとめちゃっていいの?もったいなくね?と思うわけです。
やりようによっちゃ、見た後、立ち上がれないぐらい劇的で痛切な一作になってた可能性もあった、と思うんですよ。
母なる証明(2009)みたいな作品も撮ってる人だから、できなくはなかったと思うんですが、うーん、どうなんだろ、アメリカで撮ることで、なにかバイアスかかっちゃったのかもしれません。
植民団のトップである夫妻のいかにもな俗物ぶり等、キャラはよかったと思うんですが、どういう毛色の作品にするのか?みたいな部分でベクトルを違えた気がしますね。
この手のSF大作は最近少ないし、しかもポン・ジュノなんで相当期待してたんですが、今回はスベったように思います。
ダイオウグソクムシみたいな現住生物たちが、わさわさ動いてるのを見るのは楽しかったんですけどね。
ねじレート 68/100

