番外甲子園

1979初版 やまさき十三/内山まもる
小学館少年サンデーコミックス 全18巻

やさぐれた不良高校生9人が、ある日突然発奮して甲子園を目指し始める野球漫画。

はっきり言って、プロットそのものはありがちというか、90年代ぐらいまでのスポーツ漫画鉄板のパターンだったと思います。

何も野球に限った話じゃなくて。

不良が真剣になって成功する、という成り上がりのストーリーは意外に多くの人たちの共感を呼ぶものなのかも知れません(最近はそうでもないのかな)。

私はあんまりスポーツ漫画が好きじゃないんで(それでも水島新司ぐらいは通過してるけど)不良が頑張ってようが遊んでようがどうでもいいんですが、この作品が特別だったのは、不良たちの世界に男装の紅一点、五ツ木純を放り込んだ点にある、と言っていいでしょう。

性別を隠して男どもに混ざり、共にゲームを戦い抜かんとする純の姿は、努力と根性が必須アイテムなジャンルなだけにどこか目新しく映ったことは確か。

女性が野球の世界で活躍する漫画といえば野球狂の詩(1972~)があまりに有名ですが、水原勇気がプロ球界に正面突破で実力を認めさせたのに対し、本作における純は女性であることをはなから隠しているんですね。

そこが70年代臭濃厚な野球狂の詩とは違う部分で。

純の正体を知っているのはバッテリーを組むピッチャーである主人公、土田健だけ。

で、この主人公、喧嘩っ早くてすぐに沸騰する単細胞野郎でして。

メンバー9人のリーダー格でもある。

そんな人物が、純のこととなると俄然慌てだすんです。

そんな健の行動にはもちろん好意も含まれてるんですけど、一人でも欠けられると人数が足りなくなって試合出場できなくなるから、どうしたって必死にならざるをえないという事情もあって。

いかにもな元ヤンキーが女ひとりに振り回される滑稽さがなんとも楽しくてですね。

というか、これはラブコメの構図じゃないかと。

少年誌におけるラブコメ、という意味では相当早かったことだけは間違いないと思います、なんせ翔んだカップルですら1978年連載開始ですし。

なにより、高校野球という男臭い世界にラブコメを持ち込むというギャップがいい。

不良高校生たちの野球漫画なんだけれど、どこか暑苦しくならない内山まもるの独特なユーモア、弛緩を誘う余話的な脱線があるのも効果的だったと思います。

80年代という軽佻浮薄な時代に作風がマッチしてる、とでもいうか。

再読して気づいたんですけど、池上遼一をややソフトにしたようなタッチも脱劇画を印象付けてて悪くない(女を描くのはあんまり上手じゃないですけど)。

甲子園出場をもぎ取るまでのストーリー進行は、野球漫画というカテゴリーにとらわれない面白さだったと思いますね。

残念だったのは、全国大会2回戦敗退後の展開でして。

やなさき十三の意図だったのか、編集部の引き延ばしがあったのか、当時の事情はわかりませんが、ああもうここで終わってもおかしくない・・ってなストーリーの山場を経て一旦全部をリセットしちゃうんですよ。

野球部のナインは散り散りになっちゃうわ、純の正体はばれるわ、何故か監督は居なくなるわで主人公一人きり。

いや、純がいなくなっちゃあ、元も子もないでしょ、と私は思ったんですけど、案の定以降の展開は俄然盛り上がらないものに。

多分、人気も凋落したんでしょう、数回を経過して純が復帰することになるんですが、そこからはもうなにもかもが無理矢理で矛盾とご都合主義の嵐。

働いてたはずの純がいつのまにか学園に通ってるわ、女性が甲子園に出場することを高野連が止めないわ、やめたはずのメンバーが突然5人も復帰するわで、元通りの体裁を取り繕うのに必死。

なにか別のプランがきっとあったんでしょうけど、それどころじゃなくなったって感じで。

必然、作劇の集中力も落ちてくる。

なんとなく惰性で以前の雰囲気、空気感を模倣しようとしているような感じで。

最終回なんてひどい有様。

ひょっとすると打ち切りだったのかも知れませんが、さしたる理由もなく消えていった登場人物たちを懐古する、という放り投げっぷり。

だからあれほどドラマチックなフェードアウトを演出した健の姉ちゃんはなんで放置されてるんだよ、って。

12巻までがピークでしたね。

伝説の名作になりえたかもしれない惜しい一作。

野球そのもの、試合の攻略に入れ込んだ内容ではないので、ドラマが失せてしまった時点できっとすべてが色あせてしまったんでしょう。

当時のファンは12巻で一旦終わり、と思って読めば失望しないかも。

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