弐十手物語

弐十手物語

1978年初出 小池一夫/神江里見
小学館ビッグコミックス 全110巻

言わずとしれた小池時代劇の最長連載作、週刊ポスト誌上にて25年もの長きにわたって描かれた作品。

しかしまあよくぞ110巻も続いたことよなあ、と思います。

ぶっちゃけ110巻続くだけのことはある内容か?と問われれば微妙なラインだったりもしますしね。

20巻ぐらいまでは問答無用の大傑作だったと思うんですよ。

正しいことは正しいと、信念を曲げずに発していく主人公の同心、鶴次郎の命がけの捕物帖は、人情ものな側面も併せ持って心揺さぶられずにはいられない感動回の連続だった、と言っていいと思いますし。

身分制度と恥の文化が幅を利かせる封建社会下にあって、自分を貫くことの難しさは痛いほど伝わってきたし、まともなことがまともに通用せぬ理不尽さに憤る主人公のやるかたなさは強い共感を我々にもたらした。

意固地なバカのくせに、優しすぎるんだよ鶴次郎・・・と何度目頭を拭ったことか。

あ、なんかちょっと面倒なことになってきた、と私が思ったのは、小池劇画必殺のパターン「惚れた男に身を挺して女たちがバッタバッタと死んでいく」をこの作品でも作者がやらかしたこと。

一人や二人ならまだいいですよ。

もう両手で数えなきゃなんないくらい女が死んでいくんですよ。

まあ、それこそが死神鶴次郎の異名、そのものを体現してたりはするんですけど、それにしたって殺しすぎ。

挙げ句には登場してくる女性キャラが片っ端から鶴次郎に惚れちゃうものだから、主人公、貧乏同心のくせに一夫多妻制をこの時代にやらかす羽目に。

その間にも次々と女は鶴次郎の代わりに凶刃を受けて死んでいく。

で、複数の妻もようやく減ったかと思うと、また新たな女性キャラが鶴次郎に惚れて第7婦人だか第8婦人だかに収まる始末。

それでいて大勢の妻たちはお互いに嫉妬することが全くない、って、もうカルト教団状態じゃねえかよ、と思うわけです。

鶴次郎がおかしな具合に神格化しちゃってるんですよね。

正直、20巻~40巻ぐらいまではマンネリ化しつつあった、といっていいでしょう。

ただ、そこでなげやりにならない、しぼまないのが小池一夫のしぶとさでして。

死にゆく女達のお涙頂戴路線はそのままに、鶴次郎自身を時代の不合理と戦わせるために奉行所を飛び越えて、寺社奉行や老中、目付と正面から激突させるんですな。

鶴次郎の人権主義と正義感、心優しさはこの時代、どこまで通用するのか?を直接権力の中枢にぶつけてみて量る、という作劇。

もう、命がいくつあったって足りやしない。

最終的には徳川吉宗と接見を許され、語らい合う場面にまで至る始末。

ありえねえ、と思うんです。

でも、ありえなさがゆえに人の性善性を信じたくなってくるドラマとスリルがあったことは確か。

なんだこの漫画、鶴次郎に革命を起こさせようとしてるのか?薩長同盟が存在しない無血開城な過去を描こうとしてるのか?!とあたしゃ正直焦りましたね。

手札の切り方も全く惜しみなし、で。

公儀御庭番は味方になるわ、吉原は手中に治めるわ、黒鍬者に風魔に柳生と、登場しないのはお毒見役安倍頼母ぐらいのもの。

もはや哲学の領域か、と私は途中で思ったりもした。

鶴次郎がよく口にする「人は生かされている」というセリフを時代劇というフィルターを通して具象化しようとしてる節さえあるな、と。

結局の所、一介の同心である鶴次郎が巨大な勢力のバックアップを得て、それをどう行使するか、深堀りしなかった時点でテーマは完遂されなかったんですけどね。

90巻ぐらいからは再びマンネリというか、ワンパターンな路線に。

大奥に阿芙蓉が蔓延する話を2回描いたり、前話での設定を忘れて、いつのまにか鶴次郎が普通の同心に戻ってたり、死んだ鶴次郎の妻の数が合わなかったり。

ああ、もう息切れしちゃってるな、と。

全部描きつくしちゃったんだろうな、と。

小池一夫が超人を主人公に据えず、普通の男の真正直な生き様を力に頼らず描こうとしたことが長期連載に至ったことは理解できたんですが、話を膨らませ過ぎた割にはどこにも着地しなかった印象ですね。

ちなみに110巻の最後には<第一部完>と記されてます。

110巻描いて第一部って・・・。

カムイ伝も裸足で逃げ出す悠長さだ。

いや、勤勉なのか?

どちらにせよ、もう満腹。

多分、魔物語愛しのベティ(1980~)と近いことがやりたかったんだろうと思うんですけど、時代劇の制約を鶴次郎自身が突き破れなかった時点でこの物語はもう永遠に終わらないんだろう、と思います。

序盤が素晴らしい出来だっただけに、終わり時を見極めてほしかった、というのが正直な感想。

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