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イタリア 1963
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネッロ・ロンディ

あまりにも有名な、フェリーニの代表作と言われる一本。

新作を撮れない映画監督の苦悩と焦燥を、現実と幻想を交錯させて描いた作品ですが、さてこれをどう評するべきなんだろう?と。

身も蓋もない言い方をしちゃうなら楽屋落ち、良く言うなら先進的でアバンギャルドな自叙伝といったところなんでしょうけど、古今東西の昔からですね、創作に行き詰まったクリエイターはえてして自伝に逃げる、という法則みたいなものがありまして。

いわゆる文豪と呼ばれる人たちの多くが、晩年に私小説を書いてるのが良い例。

本作がまさにそうだ、とはいいませんけどね、一観客として言わせてもらうなら創作者の産みの苦しみとか、思うようにいかないジレンマとか、正直なところ知ったこっちゃあないわけですよ。

できないなら、やめりゃあいいだけの話で。

私はこの世のあらゆるカルチャー、娯楽って、なにがなんでも世の中に必要なものだとは思ってないですし。

衣食住が足りて、生活に余裕ができてこその映画であり、音楽であり、文芸なのであって、それが逆転することって、ありえない、と思うんですね。

誤解を招く言い方かもしれませんが「ご機嫌を伺う」ぐらいの立ち位置でちょうどいい。

いわば芸を売る側の人間がですよ、こんなに苦労したんです、大変だったんです、それをわかってください、ってやるのは潔くないし、媚びてるだけなように思えて仕方がない。

結果だけ見せてくれればいい。

それこそが当たらなきゃお役御免、なんの保証もない博打打ちまがいの職業を選んだ人間の矜持ではなかろうか、と。

なんだかね、いちいち御大層なんですよね。

「作れないこと」がそんなに一大事か?と。

それよりも、世の中をささえる大事な仕事に従事してる人たちの毎日のほうが、ずっと大変で神々しいんじゃないか?と。

もちろん、創作過程をメタフィクション気味にエンタメ化する手法が間違ってる、とは思いません。

それはそれでアリなのは、わざわざ念押しするまでもない。

私がひっっかかってるのは、たかだか創作者の苦しみごときをアーティスティックに洒脱さでもって、さも人生の深いうんちくであるかのようにアンビバレンツに描いてること。

でね、これがまた全然おもしろくもなんともないわけですよ。

夢と現を行き来するかのような演出や、エンディングが後世に与えた影響は十分理解できますが、基本、物語性の解体が核としてありますんで。

起承転結が存在しないし、前後の脈絡もありゃしない。

ただ「あったこと」を羅列しているだけのようにしか見えないんですね。

わけがわからない、とか、実験的、とかいうわけじゃないんですけど、あまりにとらえどころがないというか、つかみどころがない印象が濃い。

なにをかっこつけてるんだろう、と思うんですよね。

作れない苦しみをぶちまけるなら、それで笑いの一つでもかっさらうぐらいの開き直りを見せつけんかい、と。

私は若い頃、映画を見るために飯抜いたり、CD買うために交通費浮かして自転車通勤するような人間でしたけど、そんな逆転した大馬鹿者でもこの作品が全てをなげうってでも見たい傑作、とは思えなかったですね。

識者の方々の間では恐ろしく評価の高い作品ですが、私の好きなフェリーニはやはりカリビアの夜(1957)ぐらいまでの初期だなあ、と改めて実感したりしました。

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