テリー・ギリアムのドン・キホーテ

スペイン/ベルギー/フランス/ポルトガル/イギリス 2018
監督 テリー・ギリアム
脚本 テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ

テリー・ギリアムのドン・キホーテ

まさかこの作品が完成し、公開される日が来るとは夢にも思ってなかったですね。

詳しくは制作ドキュメンタリーであるロスト・イン・ラ・マンチャ(2001)を見てもらえれば話は早い、と思うんですが、普通なら絶対あきらめるか、心がくじけるレベルなのは間違いないです。

なんせ50億の制作費を溶かしてますからね、ギリアム。

さらにはシナリオも他人の手に渡ってしまい、買い戻さねばならない状態。

公式にはその後3回(9回という噂もある)撮影開始しようとして、ことごとく頓挫してますから。

もはや祟られてると言っても過言じゃない。

そもそもドン・キホーテの映画は当たらない、という業界のジンクスみたいなものがあって。

ただでさえトラブル続きなのに、その上内容はドン・キホーテじゃあ、出資者探すだけでとてつもない難事業だ、って話で。

まさに執念。

なんとしてもこの映画を完成させてみせる、と誓ったギリアムの信念、根気のたまものに他ならない。

偏執的と言ったほうがいいのかもしれないですけど。

で、肝心の内容なんですが、さすがは構想30年を費やしただけはある傑作!・・・といいたいところなんですけど、さて、これどうなんだろうなあ、と。

ギリアムらしいことは確かです。

誰が現代劇でドン・キホーテを蘇らせようと思うのか?!とニヤついてしまったりもするんですが、やはり経年というのは残酷だなあ、と感じる部分もいくつかあって。

たった3000万ドルの低予算で制作されたせいもあるんでしょうけど、前作ゼロの未来(2013)まではかくも豊潤だったギリアムならではのイマジネーション、毒、バカバカしさ(笑い)がどうにも希薄なんですよね。

巻き込まれ型のドタバタ劇ですんで、スレスレの際どさでもって、もっと悪ふざけできたはずなんですよ、彼なら。

それらしい演出はもちろんあるんですけど、どこか淡々とストーリーが進んでいく印象があるというか、主演のアダム・ドライバーが大きく取り乱すことなく、なんとなく現状を受け入れちゃってる風、というか。

なんせドン・キホーテを演じるじいさんは完全に壊れちゃってますからね。

劇中では夢の世界に旅立ってしまった残念な人扱いなのに、なぜアダム演じるトビーはあてない旅の従者をしれっと努めちゃってるの?みたいな。

いやいやもっと慌てるなり、関係者との連絡手段を求めて右往左往するなりするだろう普通は、って。

あくまで現代劇にこだわった弊害なのかもしれませんが、それってドン・キホーテとの旅を、現実とも妄想とも取れるよう描けなかったせいなのでは?と思ったりもするんですよね。

そういうの、得意だったはずなんですよ、ギリアムは。

なんで今回に限ってはこうも四角張って現実オチなんだろう、と。

物語の顛末もどちらかといえばスッキリしないというか、わかりにくい。

ドン・キホーテが終盤で、全てをひっくり返すようなセリフを吐くんで、これ、いったいどうなるんだ?!と一瞬慌てるんですが、それをこういう形の結末でくくるのか、と。

やりたかったことはわかりますよ、稀代のファンタジスタ、ドン・キホーテの夢の旅路は永遠に続く、と訴えたかったんでしょうし、また同時に、彼の道化ぶりをスノッブで俗悪な金満家共へのアンチテーゼとしたかったんでしょう。

でもねえ、それならそれでいっそのこと最後にメタフィクション化するぐらいの冒険があっても良かったと私は思うんですよね。

だって劇中のスポンサーたちは、ギリアムにとっての、唾棄すべきハリウッド内幕の象徴に違いないし、ドン・キホーテはギリアム本人といっても過言じゃないわけですから。

不出来だとは思いません。

でもギリアムがやりたかったことを不特定多数に伝える意味で、どこか痒いところに手の届かないもどかしさがある。

これを衰えとは言いたくないんですが・・・。

80歳目前にして、ついに作品完成にこぎつけた彼の努力は尊敬に値すると思うんですが、物事にはタイミング、機運というものがある、と考えたりもしました。

これをせめて90年代に撮ってくれていたら・・・と思いますね。

ファンゆえの強欲さなのかもしれませんけど。

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