イタリア/フランス 2018
監督 マッテオ・ガローネ
脚本 マッテオ・ガローネ、ウーゴ・キーティ、マッシモ・ガウディオソ
イタリアの寂れた海辺の街で犬のトリミングサロンを経営する気弱な男と、地元のゴロツキの腐れ縁を描いた人間ドラマ。
さて、みなさん指摘してらっしゃるのかどうかわからないんですけど、これ、大人になったのび太とジャイアンの物語、と言っても過言では無いのでは?と私は思ったりします。
ただし、このお話にドラえもんは登場してこない。
ゆえに、二人の関係性は子供時代を引きずったまま大きな変化を迎えてない。
作中では詳しく過去について語られることはないんですけど、もうね、見てたら大体わかります。
「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」を地で行く状態で、それが友情にすり替わっちゃってますから。
いちいち納得しちゃうんですよね。
ああ、のび太が大人になったらきっとこんな感じなんだろうなあ、そりゃジャイアンはまともな人生送れるわけないよな、みたいな。
きっと監督は「ドラえもんなんて知らねえよ!」とおっしゃることでしょうけどね。
要は藤子不二雄が漫画にした、いじめっ子といじめられっ子の関係が、世界レベルで普遍的だった、ということなんでしょうね。
どうあれ、少なくとも日本においては「ドラえもん不在のドラえもん」をイメージする人が案外多いんじゃないか?という気がしてなりません。
で、ドラえもんに頼れないのび太がですね、ジャイアンに抗することができるはずもなくてですね。
ストーリーは極めてリアリスティックに、搾取の構図をそのまま絵にしていきます。
唯一の抑止力であった母親が老いてしまって、ジャイアン、もはや怖いものなしな状態でして。
のび太にドラッグをせびるわ、無理矢理空き巣に協力させるわ、やりたい邦題。
警察はなにしてるんだ、という話だったりはするんですけどね、なんせ犯す罪が微罪なものだから、捕まってもすぐに出てくるし、むしろその後の仕返しが怖い、というのが街の連中の共通認識で。
そうか、ジャイアンは大人であっても成立するんだ、というのが軽く目から鱗でしたね。
こんなのにつきまとわれた日にはたまったもんじゃないな、と思いつつも、のび太が中途半端にヘラヘラしてるのを見ると、ああ見事につけ入られてる、と思ったり。
なんせまあのび太だから、仕方ないんですけどね(違うって)。
終盤、ストーリーは取り返しのつかない出来事を経て、奇妙な膠着状態を迎えるんですけど、追い詰められたのび太が最後の最後に何をやらかしたか?が、いわば物語の肝。
なんだかもう、色々手遅れすぎて残念なだけだったりはするんですけどね。
そして賛否の争点になりそうなのはおそらくエンディング。
これ、見る人によっちゃあ尻切れトンボと云われそうな気がしなくもない。
ラストシーンの静寂が暗示するものを汲み取れなくもないんですが、どちらかといえば苦い味を残すだけでなんら落とし所が見当たらない感じなんでね、どこへ気持ちを持っていけばいいのか、戸惑ってしまうんですよ。
せっかくのび太に娘がいる設定にしたんだから、もっと計画的に娘を使えばよかったのに、と思いもしましたね。
例えば最後の作業場の場面で、娘に仕事場を訪ねさせるとか。
溺愛ぶりをさんざんアピールしてたんだから、娘の使いようによっちゃあストーリーは全く別の位相へとシフトしたんじゃないか?と思えて仕方ない。
結局は同じ穴のムジナ、と結論づけたことは斬新でしたが、二人の関係性における違う角度からの風景も見せて欲しかった、というのが正直なところでしょうか。
ま、結局は、大人になったのび太とジャイアンなんて、知る必要もないし、ドラマにするようなものじゃない、ってことなんでしょうかね。
だからドラえもんじゃないって!