アメリカ 2019
監督、脚本 クエンティン・タランティーノ
シャロン・テート殺害事件を題材に、シャロンの隣人である落ち目の俳優とそのスタントマンを描いた60年代ハリウッドの内幕劇。
さて、私はタランティーノを「映画における自分の語り口を確立した人」と思ってて。
これを以前「芸」と書いたんですけど。
なかなか監督の作家性だけで勝負できないハリウッドにおいて、任せておけば当たるから彼の芸を信じてればいい、という存在は本当に稀有だと思うんです。
それで8作もコンスタントに客を呼んでるんだから、もう舞台にあがっただけで客が湧くベテラン芸人の部類ですよね。
鉄板と言ってもいいと思う。
楽勝であと10年や20年は飯を食えるポジション。
今更なにか新たなチャレンジをする必要もない。
そもそも客がそんなの求めてない。
なのに、だ。
9作目にしてタランティーノは大きく目先を変えてきましたね。
おそらくシナリオのページ数はこれまでの半分ぐらいなんじゃないか、と私は想像します。
饒舌じゃないんですよ、登場人物たちが殊の外。
で、最大の疑問点は、なんのために芸風を変えてきたのかよくわからない点にあるように私は思います。
そもそも絵で魅せるような監督じゃないですから。
売れない俳優のさして何も起こらない日常をですね、ギミックなしで淡々と描写されても恐ろしくつまらないわけです。
そりゃお得意の派手な暴力描写は健在ですけどね、そこに至るまでが本当に単調で。
これ、口の悪い人ならディカプリオとブラッド・ピットの無駄遣いとでも言い出しかねない。
ブラッド・ピット、助演男優賞ですけどね。
なぜだ?
またエンディングがなんとも不可解な顛末で結ばれてまして。
実話と創作が入り混じった虚々実々な作品であることは承知してましたが、最後の最後で実話そのものをも改変してくるんですよね、監督は。
正直、見終わって数分は「なんだこれ?」とあっけにとられた。
だからなに?としか言いようがないというか。
後から考えて私が思い至ったのは、これは監督自身が「こうあってくれれば本当に良かったよね」と夢想するファンタジーである、ということ。
変わらないはずだった良きアメリカを、彼なりの必然で再構築してスクリーンに封じ込めた、みたいな。
ぶっちゃけ、難しい、と思います。
なにがって、どこに共感していいかわからないんですよね、日本人的感覚では。
アメリカではシャロン・テート殺害事件が広く似たような認識で共有されているのかもしれませんが、それを映画業界の観点から「理解できるよね?」と微笑みかけられてもただ戸惑うしかない。
局所的な感傷すぎるんです。
よほど詳しい人ならまた違うのかもしれませんが、私はなんだか他人の日記を読んでるような気になりましたね。
守備範囲の外側にボールが飛んでいくのを見送ってるような印象。
うーん、ノスタルジーにひたれるかどうかが勝負かもしれません。
なんか置いてけぼりをくらったような気持ちになる一作でしたね。
タランティーノは自分の引き際を見据えて、もう好きなことをやろう、と思ってるのかもしれません。