アメリカ 1937
監督 フリッツ・ラング
原作 ジーン・タウン、グレアム・ベイカー
実在したカップル、ボニー&クライドを映画化した初めての作品と言われてます。
二人を描いた映画としては、アメリカン・ニューシネマの先駆けと名高い、俺たちに明日はない(1967)があまりにも有名ですが、私は未見。
見なきゃなあ、とは思うんですが、今回この作品に触れて、未見リストの優先順位は確実に下がりましたね。
かように本作、出来が良い。
もう全部描ききってるじゃない、と思えるほどに。
多分ね、リブートにしろ、リメイクにしろ、ここになにかを足していくことでしか物語の底上げはできない気がしますね。
大胆な改変はおそらく不可能。
つまりは装飾の質の問題となる。
そんなことねえよ!見てから言え!とお叱りをうけそうですけど、そうおっしゃる方々もこの映画の完成度の高さはきっと認めざるを得ないはず。
私が絶妙にうまいな、と思ったのは、二人を追い詰めたものが過去の過ちでも因果応報でもなく、世間の蔑視と誤認逮捕にあった、としていること。
そりゃやってもいないことで電気椅子に座らされそうになったら、誰でも死にものぐるいになりますよ。
法とか良識とかほざいてる場合じゃない。
個人が権力と戦うのに、お行儀よく常識的でどうすんだ、って話で。
感情移入しやすいんですよね。
少なくともぶっ壊れた悪党どもの逃避行よりはストレートに二人の思いが伝わってくる。
だってね、ヒロインの職業、法律事務所の秘書なんですよ。
いわば専門家だ。
専門家が本気で頑張ってもどうにもならない冤罪をいかにして覆すか?となると、残る手は実力行使しかない。
また、ギリギリの局面で神父の言葉を信じきれなかった主人公の気持ちも痛いほどよくわかる。
転落の図式がいちいち腑に落ちるんですよね。
物語の構成にやたらと説得力がある。
ゆえに、すべてをかなぐり捨てて追われる身と堕しても、二人の愛がより研ぎ澄まされて純化していくような錯覚に見る側はとらわれる。
エンディング間際の主人公のセリフなんて号泣ですよ。
こんなことを素直に言える人生を私は送れるんだろうかとすら思った。
ボニー&クライドというと犯罪映画の印象がありますが、この作品に限っては世の無理解に一撃食らわせた社会派映画、といった印象ですね。
事実を事実のまま偶像化、英雄視しなかったラングの脚色が光る一作。
傑作でしょう。