聖なる鹿殺し

イギリス/アイルランド 2017
監督 ヨルゴス・ランティモス
脚本 ヨルゴス・ランティモス、エフティモス・フィリップ

聖なる鹿殺し

さて、この映画の感想をどう書くべきなのか、非常に悩む自分が居たりするんですが、まず最初に言っておきたいのは「最後まで見ても意味不明だよ」ってことですかね。

「聖なる鹿」殺し、という意味深なタイトルが、ギリシャ神話におけるエウリピデスの悲劇『アウリスのイピゲネイア』を示唆している、と指摘されてますが、仮にギリシャ神話に詳しかったとしても映画の意味はまるで読み解けません。

普通に見てて、作中の登場人物の誰がイピゲネイアで、誰がアガノムメンで、誰がアルテミスなのか、おおよその見当はすぐにつきますが、だからといって「なぜこうなっちゃうの?」ってのがまるでわからないんですよね。

なぜわからないのか、というと、この作品が時代も場所もしれぬ寓話的な作りではなく、現代劇だからなんです。

現代劇である以上、女神アルテミスの聖なる鹿を殺してくだる、人智の及ばぬ罰を「神の怒り」ですますわけにはいかなくなる。

罰の発動する条件なり、根拠を、誰もが納得の行く形で提示しなきゃならない。

そこがすっぽり抜け落ちちゃってるんで、『アウリスのイピゲネイア』を題材とした「呪い」の物語、みたいになっちゃってるんですね。

で、仮にね「呪い」なんだ、と納得したとしてもですよ、今度はなぜバリー・キオガン演じるハイスクール・ボーイが「呪い」を操れるんだ、って話になってくる。

つまり前提として「そうなっちゃう仕組みなんだよ」と自分を納得させないことには一歩も先に進めない映画なんですよね、これって。

なんでそんな有様になっちゃってるのか、指摘するのは簡単で、前述したようにこの物語を「現代における医療ミスの話にしてしまったから」に他なりません。

この作品がつい最近公開されたマザー!のように「どうともとれる」舞台設定だったら全く意味合いは違ってきてた、と思います。

それでこそ元ネタのギリシャ神話も活きてこよう、というもの。

ただ、だから失敗作である、と断じきれないところにこの作品の面倒臭さがあって。

もうね、やたら滅法怖いんですよ、この映画。

抑制された気味悪さ、というか、じりじりじりじりひたすら狂気が積み重なっていくのが片時も弛緩を許してくれなくて。

なんでそうなるのか、主人公一家の誰一人としてわかってないのに、そこに誰もがある種の「確信」を持ち合わせているのも恐ろしくて仕方ない。

動かない両足をひきずって這い回る姉弟の絵なんて、まさに悪夢そのものですよ。

劇伴の使い方がまた秀逸で。

クラシックメインなんですが、ここぞという場面で不穏さを増幅しまくるんですよね。

ほんと心臓に悪い。

そう、「わけがわからんけどホラー/スリラーとして一級品の出来」だったりするんです、この作品。

母親役のニコール・キッドマンが監督のことをキューブリックのようだ、と評したのも納得ですね。

どこか静謐とした怖さ、精緻な忌まわしさに満ちている。

まあ、単純に考えるなら「目には目を、歯には歯を」をテーマとしている、と捉えてもいいかと思うんです。

さらにつっこんで考察するなら「法では裁けぬ正義の所在」について問うている、という人もいるかも知れません。

で、肝心なのは、それら全部をひっくるめて「最後まで目が離せない」ってこと。

ラストシーンにおける登場人物たちの細かな所作があれこれ暗示しててこれまたやっかいだったりするんですが、不可解さを脇に抱えたままでもなんかすごいものを見た気にさせるのがこの作品の凄みじゃないでしょうかね。

違うやり方はきっとあった、と思うんですが、たとえ暴投だったとしてもここまで奇妙な軌道を描く変化球だと肝が冷える、そんな一作でしたね。

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