アメリカ 2017
監督・原案 ギレルモ・デル・トロ
米ソ冷戦下にある1962年を舞台に、囚われの半魚人に想いを寄せる唖者である女性を描いたファンタジー。
まあしかし、デル・トロもとんでもない題材を映画化してきたな、と。
だって半魚人ですよ?
人と同じ体型であるとはいえ、エラ呼吸のクリーチャーですもん。
100歩譲って保護欲こそかきたてられど、恋心を抱くなんて普通ありえないですし。
そりゃね、かつて人魚に恋をする男性を描いたスプラッシュ(1984)なんて映画が存在したりはしました。
でも人魚は上半身人間ですし。
まだかろうじて理解できなくもない。
本作の場合、逆転版と考えたにしても、半魚人、外見完全に魚類ですから。
ま、中には美女と野獣と同じじゃん、という人も居るでしょう。
けど野獣は人語を解するし、最後は人間に戻りますから。
半魚人、喋れないし、魔法で醜い姿に変えられてるわけでもありませんし。
マジでUMA(未確認動物)。
それを本気で好きになる女、ってどう理解しろっていうんだよ、って話で。
こりゃかつて大島渚監督が発表して物議を醸したマックス、モン・アムール(1986)と同じ路線なのか?とあたしゃ思わず身構えたりもした。
真正面から異類婚姻譚なんぞを描かれたりした日にゃあ、特殊な性癖なんだね・・・としか受け止めようがない。
ぶっちゃけ終盤ぐらいまで、ほとんど共感できなかった、ってのが正直なところですね。
だって、変ですし、ヒロインのイライザ。
いくら可哀想だからって、それが恋にすり替わるなんて病んでるとしかいいようのない事例ですから。
監督は美しいと感じられる映像づくりに腐心してますけどね、じゃあそれが素敵なのか?というとやっぱり違いますしね、フリーキーですもん、どう小細工したところで。
ところが、だ。
そんな違和感をデル・トロは最後の最後にまるごとひっくり返して来ます。
さて、この映画は額面どおり、ちょっと頭のおかしな女の恋物語であったのか?
否。
ラストシーンから読み取れるものの解釈は様々でしょうが、私はこの数分のシーンに「掃除婦に身をやつし、孤独を積み重ねてきた熟年の女の深い絶望」を見た気がした。
そう考えると、なぜ監督がヒロインの入浴シーンをわざわざ挿入したり、隣人である壮年のゲイの報われぬエピソードを挟み込んできたか、至極納得がいく。
そこにあるのは60年代という時代がもたらすマイノリティへの無理解。
ヒロインにとって、味気ない日常の僅かな救いとなったのは、同じく口のきけないクリーチャーとのささやかな心の触れ合いでしかなかった、というのが鍵。
私の解釈ではこの作品、ある地点からファンタジーに色を変えた一作ですね。
ラストシーンが意味するものは「救い」でも「おとぎ話的ハッピーエンド」でもなく、いうなれば孤独の行きつく果てが見せた一炊の夢だったような気がします。
ああ、これは形を変えたパンズ・ラビリンス(2006)だ、と思いましたね。
お見事。
パシフィック・リム(2013)を見たときはこの先どうなるんだろ、デル・トロ?と思いましたが、彼の創作者としての感覚は全く鈍磨してませんでしたね。
エンディング数分ですべてが意味を変え、それがやがては目頭を直撃する秀作だと思います。
万人に受けるとは思えませんし、一筋縄ではいかない映画だと思いますが、これこそがデル・トロだ、と声を大にしたい次第。