ブランカとギター弾き

イタリア 2015
監督、脚本 長谷井宏紀

ブランカとギター弾き

はて、なんでイタリアで制作されてるのに映画の舞台がフィリピンなんだろう?と疑問に思ったんですが、調べてみたら、ヴェネツィア・ビエンナーレ(現代美術の国際美術展覧会を開催してる財団)&ヴェネツィア国際映画祭が映画の制作費を全額出資してる、とのこと、なるほど納得。

詳しい来歴は知らないんですが、監督&脚本をつとめた長谷井宏紀という人、主に海外を拠点として活動していたらしく(現在は東京拠点)、発表した短編映画がヨーロッパで高い評価をうけたのだとか。

そこから本人にとって初長編作品である本作の出資をとりつけるにまで至ったのだから、たいしたものだよなあ、と素直に思いますね。

なかなか日本人が異国の地において単独でできることじゃない。

で、肝心の作品内容なんですか、私はもう、あらすじをちらっと読んだだけで「完全に泣かせにかかってやがるな、この野郎!」とポケットにハンカチがあったかどうか思わず確認し直したりした。

だってね、主人公は両親に捨てられたストリートチルドレンの少女なんですよ。

誰にも顧みられない存在。

糊口を凌ぐために盗みでなんとか生計を立てているような有様。

そんな少女がある日、盲目の年老いたギター弾きと出会う。

ギター弾きも少女と同様に、道行く人の善意にすがって命をつないでいるような存在です。

二人は徐々に心を通わせ合うようになるんですけどね、もうこの時点で私は嫌な予感しかしてない。

なんせ盲目の老人と捨てられた少女ですよ?

理不尽で横暴な社会に対抗する手段もなけりゃ技もなく、変なのに目をつけられた日にゃあ生き地獄以上の悪夢が待っているであろうことは想像に難くない。

しかも少女は老人に「大人はお金で子供買っていくんだから、私もお金でお母さんを買う」とか言い出す始末。

ああ、だめだ、ハンカチの前にティッシュ用意しなきゃ、とあたふた椅子を立つ私。

かつて日曜の夜に、大人も子供まとめて泣かせに泣かせた世界名作劇場(TVアニメ)かよ!って。

これでもかと不幸が押し寄せてくるんでしょ?ええもう、わかってますとも、うまくいくはずがないもの、このコンビで。

脳裏をよぎるのは「フランダースの犬」のラストシーン。

絶対、盲目の老人、最後まで生きてるはずがない、と強く確信。

うわー、えらいのに手を出しちゃった、これ最後まで見れるのか俺、と意味なく心拍数があがる。

ところがだ。

さあくるぞ事件、さあくるぞ不幸、と身構えていたにもかかわらず、割とトントン拍子に少女と老人はクラブで歌と演奏を披露する職を得る。

あれ?

不幸に不幸を塗り重ねて最後にようやく幸せをつかむパターンじゃないの?といささか拍子抜け。

もちろん、なにも起こらない、ってわけじゃありません。

少女と老人は悪意にさらされたり、かどわかされそうになったりで、あれこれ世の中に翻弄されます。

でも、それが韓流ドラマ風にむやみやたらとショッキングだったり、作為的だったりしないんですね。

ごく自然に、二人の境遇をありのまま描いた風なんです。

しいてはそれがフィリピンという街の抱える暗部であったり、捨てられた子どもたちの心に灯る性善性を少しづつ、穏やかな色調で浮き彫りにしていく。

そしてエンディング、怒涛の感動が待ってる!・・・というわけではありません。

先々を考えるなら「ろくなことにはならんぞこれ・・・。誰かなんとかしてやれないのかよ!」とジタバタしそうになるラストシーンだったりするんですが、これがなぜかね、不思議と印象に残る。

少女と老人は救われたのか?それとも救われてないのか?

最後に作品が語りかけるのは、人の絆が幸せを形にする、ということ。

ハリウッド風のわかりやすい感動を求める人にとってはどこかスッキリしない一作かもしれましれませんが、私は、監督が伝えようとしたことが齟齬や誇張なくピタっ、と尺に収まった一作だ、と思いましたね。

美学のある小品だと思います。

想像していた内容とは違ったんですが、いい意味で裏切られたことが小気味良く感じられた作品でしたね。

良作でしょう。

全編を通じて日本人的な感覚じゃないことも私は評価したいですね。

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