ラ・ラ・ランド

アメリカ 2016
監督、脚本 デミアン・チャゼル

さて、以前にも書いたんですが、私は徹底的にミュージカル映画がダメな人です。

何がダメって、台詞の途中でなんの前置きも脈絡もなく登場人物たちがいきなり歌い踊りだすのに私はついていけない。

早い話がひどく興ざめしてしまうんですね。

え、どうしたの?何があったの?なんで急にテンション上がっちゃってるの?ドラッグ?酒?頭どうかした?と、真剣に慌ててしまう。

要するに、普通に会話してるシーンと歌い踊るシーンの「つなぎ目」がどうしてもシームレスに感じられない。

こっちは真剣に見てるのに、なんで逐一歌と踊りの余興がはいるのか、と思ってしまう。

邪魔なんですよね。

物語世界に入り込むのをいちいち阻害されてる気がして仕方がない。

例えばこれがかつてタケシが「座頭市」でやった農民のダンスシーンとかだったりしたらまだ許容できる。

なぜならそこに歌詞がないから。

でもミュージカル映画って、高ぶる気持ちや悲しい気持ちをいちいち歌にして聞かせようとしますよね。

ぶっちゃけね、なんでお前の心情を歌にしたものをわざわざ聞いてやらにゃあならんのか、と思うわけです。

これ実際にやられたらドン引きですよ。

人格すら疑ってかかるレベル。

というか、映画って、秘めた思いや心の奥底にくすぶるものをね、演出なり映像なりで伝えることに醍醐味があるんじゃないのか、と私は思うんですよ。

歌でそれを伝える、って、なんか違う気がしてどうにも納得がいかない。

念のため書いておきますが、音楽が不必要だといってるわけじゃないんです。

映画音楽が映画を形作る上で重要な柱のうちのひとつであることは間違いないと思うんですが、それを登場人物たちにやらせるのはどうなんだ、って話なんです。

どうしても歌でやりたいなら、セリフ挟まずに一貫して歌だけで映画作ってくれよ、と。

それならまだ没入できるかもしれない。

歌ったり、普通に話したりの極端な温度差が私はどうしても気持ちが悪い。

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で、本作。

まあ、ミュージカルの王道ですよね。

売れないジャズメンと売れない女優の、若さゆえな恋が物語の本筋。

予想通りハッピーエンドは最後に待ち受けてない。

なんかもう、最後に振り返ってみればすべてが恋の魔法に翻弄された白日夢のようにも思える作り。

映像も凝ってます。

一言でいうならドリーミー。

これが素敵だった、という人の気持もわからなくはない。

特に、若い頃に音楽なり、役者なりを目指して夢破れた人たちにとってはどストライクなんじゃないか、と思う。

きっと自分を重ね合わせて見てしまうことでしょう。

でもね、音楽にかぶれて20年近くドブ泥をはいずりまわった私に言わせるならね、ここに現実味はないです。

やっぱり、夢物語。

こうあって欲しいよね、という願望を作為的に切なく味つけた妄想みたいなもの。

きっと、これはこれでいいでしょう。

監督は多分ファンタジーを紡ぎたかったんだと思う。

けれど、私はそこに共感してやれない。

私のミュージカル嫌いを別にするなら、決して悪い出来、というわけじゃないとは思うんですよ。

むしろこだわりまくってる、と言えると思う。

でも違う。

私がデミアン・チャゼルに求めてるのはこれじゃない。

音楽にひそむ狂気をあれほど饒舌に描いたセッションはいったいなんだったろう・・・と、最後まで見てふと思いました。

私の手がとどく場所にない映画、というのが結論でしょうか。

なんだか寂寞とした思いにとらわれましたね。

きっとこんなこと言ってるのは私だけなんでしょうけど。

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