ガール・オン・ザ・トレイン

アメリカ 2016
監督 テイト・ティラー
原作 ポーラ・ホーキンズ

ガール・オン・ザ・トレイン

ベビーシッターを撲殺し、山中に放置した犯人を追うサスペンスなんですが、例によってキャッチコピーは結構なレベルで大げさです。

これが「初めて体験する衝撃のラスト」だったら日本の2時間テレビドラマは毎週毎週衝撃だらけで、もう誰も映画なんかみなくなることだろう、と思われます。

はっきり言って、オチはたいしたことないです。

消去法で考えていけばあいつしかいねえな、と早々に見破ってしまった人もきっと居たことでしょう。

この映画の肝は、犯人が誰か?ということより、主人公レイチェルが認識している「過去から現在に至るまでの記憶の断片が本当に意味することは何だったのか?」なんですね。

つまり監督は、そのあたりをどう鮮やかにひもといて観客をあっ!と言わせるかに全精力を傾けなきゃならない。

同じコインの表と裏は違うのだ、と知らしめてこそ物語も脈打ちだす、ってなもので。

でも監督はそこをあんまり重視してないんですよね。

スリルやメリハリより、ドラマ性を念頭に置いてる、というか。

この作品って、実はサスペンスの側面を併せ持ちつつ、レイチェルの再生を描いた作品でもあって。

監督はまずレイチェルをどう描くか、そこに並々ならぬ執心がある。

いや、それはそれで別に構わないんです。

記号みたいなキャラクターにただうろうろされても現実味に乏しくなるだけですし。

でもこの作品をサスペンス、ないしはミステリだと思って見てる側からしたら、その執着がやっぱりまどろっこしいし、テンポを悪くしてる、と感じる部分はどうしたって出てくる。

要はバランスの問題なんです。

傷つき、打ちひしがれた女を丁寧に描写しようとするあまり、謎を謎として効果的に機能させることがどこかないがしろになってるんですね。

結果、やけにベトついたメロドラマのような仕上がりに。

やっぱりね、どのような事情があったにせよ四六時中酒を手放せないアル中女レイチェルの、元旦那に対するストーカー行為に理解を示す、って相当難しいと思うんですよ。

これ、前半の展開なんですけどね。

たとえそれが結末への布石だったとしても、です。

それを緩和するのが謎解きのプロセスだったはずなのに、ちっともそっちへ話を進めてくれないものだから残るのはただ不快感だけで。

私は、なんて面倒くさくてめめしい女なんだ、と見ててひたすらイライラでしたね。

そういうことを伝えたかった映画じゃないと思うんですよ、本当は。

虐げられた女をテーマに撮りたかったのなら題材が違うでしょうしね。

「結局痴情沙汰でもめただけの話」と揶揄されそうな危険性を孕んでしまったのは、監督の舵取りが原因、私にはそう思えましたね。

エミリー・ブラントの憑依されたような演技を見れたのは収穫でしたが、うーん、あんまり私は評価できないですね。

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