ジャッリカットゥ 牛の怒り

インド 2019
監督 リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ
脚本 S・ハリーシュ

村の小さな肉屋の屠殺から逃げ出した水牛を追い、捕縛しようとする人々を描いたパニック映画。

この作品がとんでもないのは、本当に「それだけのこと」で最後まで物語が進んでいくこと。

いやもうね、だからどうした、って話だったりはするんですよ、ぶっちゃけ。

そりゃ牛が逃げることもあるだろうよ、と。

馬も逃げれば、とっつかまえた鹿や猪が逃げることだってあるかもしれない。

そりゃ命がかかってるんだから畜生も必死ですよ。

実際にうちのばあちゃんが住んでた田舎では、畜産牧場の乳牛が逃げて騒ぎになったことがあった。

でもね、それが住人の生活を脅かす大事件なのかというと、そうでもない気がするんですよね、私は。

当時、乳牛も数日で畜舎に連れ戻されましたしね。

誰も慌てたりなんかしない。

「腹が減ったらそのうち帰ってくるだろう」ってな按配で、みんなのんびりしたもの。

だって牛や馬は率先して人を襲ったり、捕食したりはしないですし。

偶然出くわして怪我させられるようなことはあるかもしれないですけど、せいぜい実害は畑を荒らされるぐらいのことだと思うんで、村人総出で昼夜を問わず決死の探索、ってのはどうも合点がいかない。

これが熊相手なんだったらわかる。

熊は民家にだって侵入してきますしね、なんとかして追い払わなきゃなんないし、そのためにマタギという特殊技能集団が古くから腕を磨いてきたわけですし。

なので映画本編における村人たちの慌てよう、感情の高ぶりが、なんか他所の世界の出来事のようにも思えてきて。

もう凄まじい罵り合いが村のあっちこっちで勃発してるんですよ。

責任のなすりつけあいで、ひたすらもめ続けるばかり。

挙げ句には、村を追放された前科持ちを呼びもどして、水牛を捕まえてもらおうと画策する始末。

こいつらほんとギャンギャン喚くばっかりで計画性ゼロだな、と少し呆れてきたりもして。

しかし、この温度差はいったいなんなんだろうなあ、と。

ジャングルの奥地の村、という地域性と、水牛という日本ではあまりお目にかかることない巨大牛の知られざる特殊性がパニックの根底には潜んでいるのかもしれません。

何らかの事情があって、このまま水牛を放置すると村が全滅してしまう、みたいな。

しかしながらそれを不案内な視聴者に、積極的に説明しようとしてないんで、違和感はただただ増大していくばかりでね。

野生動物保護令がインドには存在していて、殺すことができない、という前フリはあったんですけど、じゃあそれがパニックに直結するのか?というと少し大げさすぎるような気もしますしね。

映画を見進めていく限りでは、ほとんど怪獣映画ですね。

未知の凶暴な生物を退治するために、あの手この手で攻略していく、みたいな。

リーダー不在なんで、まるっきりまとまりがなかったりはするんですけどね。

ま、牛だと思わなければ膨れ上がる緊張感、スリルはそれなりです。

インド映画特有の意味不明なダンスシーンもないですし、余録が多すぎて見ててダレるってこともなかった。

なんか熱量がとんでもないことだけは認める。

あとはエンディングをどう評価するか、でしょうね。

意外な場所に着地したことだけは確かです。

これはひょっとして神話の創出だったのか?などと私は思ったりもした。

つまるところ、水牛ってのはアイコンにすぎなくて。

捕まろうが逃げようが実はどうでもよかったのかもしれない。

日本人的な感覚で言うなら、これは「祭り」なのかもな、と思ったり。

日常から切り離された特殊な環境において、集団儀礼が発現する瞬間を我々は見せられてるのかもしれない、と考えたり。

インド版、岸和田だんじり祭というのが的確なのでは、と。

だんじり祭には全国指名手配犯ですら危険を犯して戻ってくるぐらいですから、符号は一致するな、という気がしたり。

なんとも野心的、実験的な作品ではありましたね。

はまる人は猛烈にはまるかもしれない。

ボリウッドおなじみの様式を逸脱してる、という意味ではインド映画の可能性を見せつけた一作と言えるかもしれません。

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