1975~86年初出 つげ義春
新潮文庫

<収録短編>
退屈な部屋
魚石
日の戯れ
散歩の日々
池袋百点会
隣の女
無能の人 6話
今頃何を言ってんだ、って話ではあるんですが、つげ義春の漫画が新潮文庫から出てる、ってのに軽く驚いたり。
だって新潮文庫ですよ?
最近は老眼が加速して活字読んでないんで、今どうなってるのか詳しく知らないですけど新潮文庫といえば文芸ですからね。
漫画をラインナップに並べるか、と。
すげえな、つげ義春。
87年から断筆状態なのにも関わらず、年月を経れば経るほど評価はうなぎのぼり。
かほどに「ねじ式」のインパクトが強烈だった、ということなのか。
もちろん「ねじ式」だけではないんでしょうけど、各方面の文化人や知識人がこぞって絶賛したのはかの一作ですしね。
正直、私はそれほど熱心な作者のファンでもないんですけど「無能の人」に関しては、いつか原作を読んでみたい、と思ってまして。
竹中直人が監督主演した映画、無能の人(1991)が当時、なんだか不思議に印象に残った、というのがあって。
今回、遅ればせながらようやく手に取ることができたわけなんですが、何故かくも熱心なファンが居るのかよくわからないと思ったのが半分、ああこれはエッセイコミックの走りだな、と思ったのが半分。
やっぱりね、どうあがいたって60年代~70年代ぐらいで止まってる、というのは実際だと思うんです。
まかり間違っても80年代の漫画ではない。
もう完全に時代を無視してるし、手塚治虫のように常に第一線を意識してる風でもない。
水木しげるのような例もあることですし、変節しないことが逆に時代を振り向かせることもあるかと思うんですが、私の感覚ではこれは辰巳ヨシヒロと同じで「変わらない」のではなく「ついていけてない」だと思うんですね。
そこに古臭さを感じたりしたらもうアウトでしょうね。
少なくとも「ねじ式」のような先鋭性、革新性はここにはない。
じゃあ代わりに何があって、何が読者をひきつけているのか、というと、とても創作とは思えない奇妙な現実味でしょうね。
どう考えてもつげ本人の私生活を描いてるとしか思えない生々しさが一連の作品にはあって。
描けない(描かない)漫画家の転落ぶりが、その貧困のもたらす惨めさ、いじましさ、情けなさを伴ってやたら真に迫ってるんです。
社会不適合者というか、今で言うところのニートみたいな人間の悲哀がこれでもか、と誌面から匂い立ってくる。
漫画家残酷物語(1961~)みたいな能動性、生産性がまるでないのもやるせなさを加速していて。
これをエッセイコミックなどと言ってしまうのは乱暴すぎるかもしれませんが、嫌なリアリズムが一定の層のシンパシーを強く得るのでは?と私は思うんですね。
どこかわかるような気になっちゃうのが、ひょっとしたら作者のマジックなのかもしれない。
一歩間違えてたら俺もこうだな・・・と少しでも思ったらもはや虜かもしれませんね。
令和を生きる若年層の読者の支持は全く得られないかもしれませんが、作者最後期の作品として一読の価値はあるかもしれません。
余談ですが吉本隆明が文庫の解説書いててびっくりしました。
読まないけどね、うん。