鉄道運転士の花束

セルビア/クロアチア 2016
監督、脚本 ミロシュ・ラドヴィッチ

鉄道運転士の花束

セルビアの映画なんてオン・ザ・ミルキーロード(2016)しか見たことがないものだから、かの国の映画産業がどうなってるのか等、さっぱりわからないんですけど、こういう作品も作られてるんだ、ということに少し驚きがあったり。

私の勝手な思い込みなのかもしれませんが、あのあたりの旧ユーゴスラビア圏って、つい最近まで内戦してて、今も戦火の傷跡が残ってるイメージがありますから。

いつの間にやらこの手の人情劇が成立するだけの復興を成し遂げてたんだなあ、と。

まあ、この作品を見ただけでそう判断するのは早計なんでしょうけどね。

映画で描かれているのは鉄道運転士という職業に殉ずる男たちのプロフェッショナリズムと、赤の他人同士ながら実の親子以上にお互いを深く思いやる、イリヤとシーマの関係性。

イリヤは定年間近の運転士なんですけど、最愛の彼女と死に別れて以来、ずっと未婚。

かたやシーマは捨て子で、養護施設育ちなんですが、ひょんな偶然からイリヤの養子に迎え入れられることとなる。

子供なんて育てたこともない頑固一徹な親父が、ギクシャクしながらもシーマを一人前の男にしようとする奮闘ぶりが見どころだったりするんですが、なんだか昭和の日本映画を見てるみたいな気にさせられたりも。

適度にいい加減で、色んなことが緩かったりするんですが、だからこそ物事がシンプルに進んでいって良いんだ、みたいな全肯定感があって。

そこに奇妙なノスタルジーを感じたりするんですよね。

ただ、それだけは終わらないのがこの作品の独特さで。

少しばかりのコメディ色を交えながら、物語は淡々と進んでいくんですけど、私が、えっ?と思ったのは、鉄道運転士たちが「人を轢き殺してこそ一人前」と口を揃えて言ってること。

いわゆる人身事故のことなんですけどね。

これ、皮肉じゃないんです。

本気でみんなそう思ってる。

人の死がすぐ隣にあった紛争地帯の過去が運転士たちの考え方に影響を及ぼしてるのかもしれませんが、物語ではこの思い込みが、さっぱり人を轢くことのできない新人運転士の精神状態をおびやかすまでに「強迫観念」として肥大していきます。

いやいや、人轢かないですむならそれに越したことはないじゃん!ってのは通用しない。

ほとんど通過儀礼と化してたりするんですよね。

個人的な話で恐縮なんですけど、何故か私は近しい人に鉄道勤務な人間が2人ほどいまして。

戦後から平成までの事情には幾分詳しかったりするんですが、国内においては「いいからさっさと人、轢いとけ」みたいな話は聞いたことがない。

そういうのって、日本じゃ「忌み」ですからね。

作中ではなんとか人を轢かせようと、イリヤがサクラを手配しようとすらしますからね。

この価値観の違いは一体何なんだろうなあ、と。

で、この作品が詰めきれてなかったのは、人を轢くことが新人運転士の内面に何をもたらし、ベテラン運転士たちが実は何を見ていたのか、明確にしなかったこと。

なんとなく、よかったよかった、で終わっちゃってる。

いや、よかったじゃねえだろ!って。

もう少しわかりやすい形で運転士たちの心のありようを伝えてくれていたらなあ、と思いますね。

これが鉄道運転士なんだ、という断定口調も、遠く離れた日本に暮らす身としてはちょっと理解しにくいのが難点かも。

まあ、なんとなく感覚的に伝わってくるものがないわけじゃないんですが、ストンと腑に落ちるものがあれば、もっと劇的に感じられるものがあったかもしれません。

不思議な質感を有する映画ではありますね。

鉄道ファンに見てもらいたい、と少し思ったりしました。


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