マリオネット師

1987年初出 小山田いく
秋田書店チャンピオンコミックス 全11巻

学園もの青春路線でチャンピオン誌上において一時代を築いた作者が、これまでの作風から路線変更を試み、後に代表作と呼ばれるようになった作品。

さて小山田いくというとすくらっぷ・ブック(1980~)であり、ぶるうピーター(1982~)が当時の読者にとっては記憶に目覚ましいところですが、ご存知ない方のために書いておくと、この二作、前向きで健全な少年少女を描写することにおいて他者の追随を許さぬ極北ともいえる作品だったりします。

私は当時、学生だったんですけど「作者は本気でこんな中学生や高校生がいると思ってるのだろうか?いや、居てほしいという願望なんだろうか?それとも作者の学区ではひょっとしてこれが当たり前だったりしたんだろうか?いやいや、それはない、さすがにない」とひどく混乱させられたものです。

一言で言うなら、気恥ずかしい。

読んでて身悶えするほどこそばゆい。

この作品とタメをはれるのは庄司陽子の生徒諸君!(1977~)ぐらいしかないんじゃないか?と言えば、おおよその内容は想像できるかと思うんですけど。

作中で示される、青春とはこうあるべき、男女交際とはかくあるべき、という理想形がね、とてもじゃないけど80年代じゃないんです。

現実に即してないことを理解した上でやってるのかどうかはわからないんですけどね、大人になった今、あらためて振り返るならこれは親が子に望む真っ当さだなあ、と思ったりもします。

誰の共感を一番得るか?というと、多感な思春期の子供を持つ母親なのではないか?と思ったり。

どこか女性的、といってもいいかもしれません。

結局「生身の性」が欠落しちゃってるんですよね、小山田作品には。

露骨にさらけだしゃいいってものでもないですけど、全く存在しないかのように扱うのはあまりにも無理がありすぎる。

10代を描いているのに、10代の読者層からは冷笑されかない内容、というのが実情だった気がするんですね。

で、本作なんですが、作者自身は「若い読者との感覚のズレを感じての作風変更」と語ってるんですけど、古い読者からしたらですね、いや待て、あんた最初から10代に寄り添ってないから!とツッコまざるを得ないわけで。

どの部分を作者はズレと感じていたのかはわからないんですが、変更点があるとするなら物語性へのこだわりかな、と思ったりはしますね。

スリをなりわいとする16歳の少年を主人公とし、身の回りの事件に対処させるという物語構造は、おそらく作者なりのアンチヒーロー像の創出を試みていたんでしょう。

私は御大手塚治虫のミッドナイト(1986~)を思い出したりしましたね。

とりあえず、健全さ、真っ当さをトレードマークにしていた人が、突然社会の裏側を描きだす、というのは衝撃的ではありました。

やろうと思えばこういうこともできるんじゃん!みたいな。

ただね、ミッドナイトもそうだったんですが、基本設定に無理がありすぎるというのは間違いなくあって。

たかが16歳の、なんの組織にも属さぬスリが暴力団や犯罪者すら手玉にとってしまい、警察ともツーカー、というのは明らかにやりすぎでした。

マリオネットを自分の手先のように自由自在に操つるギミックとか、漫画らしいケレン味があって良いと思うんですが、それを活かす舞台があまりにも現実味に欠けてるんですよね。

あと、身の周りで事件がおこりすぎ。

未成年がこんなにしょっちゅう犯罪に関わるとか、ありえないですから。

でもって、相変わらず生身の性も欠落したままですし。

とぼけたヒロイン、みのりの描き方とか、現代でも通用するんではないか?と思える可愛さなんで、もったいない、と思うんですが、代表作と評されるわりには従来の熱心なファンにしかアピールできない内容になっちゃってた気がします。

小山田いくは、山本おさむが「ぼくたちの疾走」(1981~)で果敢に下半身へ挑戦したように、開き直るべきだった、と思いますね。

力量はあるのに自分で自分にセーブをかけてる、それを強く認識したのが私にとっての本作だったりします。

お手本にすべきは漫画の神様ではなくて同世代の漫画家だった、そんな風に思ったりしましたね。

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