フランス 1998
監督、脚本 ギャスパー・ノエ
一部で絶大な人気を誇るフランスの先進的な映画監督、ギャスパー・ノエの劇場初長編作。
自身が監督した40分ほどの短編、カルネ(1994)の続編らしいんですが、私は未見。
間違いなくカルネから順番に見たほうがいいんでしょうけど、これがねえ、2000年にリリースされて以降、再発売されてないんで、今やものすごいお値段になってまして。
いいのかどうかわからん映画に1万円以上も出せんわけです。
一応、冒頭数分を費やして、カルネのあらすじはダイジェストで紹介されますから、なにがどうなってるのかまるでわからない、ってことはないんですが、きちんと追ってる人に比べて視聴後の印象は幾分違ってくるだろうな、と。
それが証拠に、本作を見ただけではある重要な事実に思いを巡らせる事ができません。
映画の主人公はかつて馬肉屋を営んでた50代の男なんですけどね、一人娘がいるんですよ。
で、この娘なんですが、一切口を利かないんですよね。
私は父親をひどく恐れているか、自閉症気味な内気さなのかな?と漠然と考えていたんですが、カルネを見た人の感想を読んでると、この娘は知的障害者である、と書いてあるんですね。
だとするならですよ、エンディングの意味が全く変わってくるんですよね。
ああ、やっぱり続編もので前作をすっ飛ばすもんじゃない、とつくづく思いました。
なので今回、あまりちゃんとした感想になってないかもしれません。
いつもはちゃんとしてる、ってわけでもないですけど。
ま、そのあたり、斟酌していただくとしてですね、あえて筆を進めますが、見終わって私がまず思ったのは、ああ、疲れた・・でして。
何が疲れるって、主人公の男、自分のことは棚に上げてひたすら世間や社会を呪っていて、外的要因が俺をこんな風にした、と盲信していてですね、それを延々呪詛のようにつぶやき続けるんですよね。
モノローグとして挿入されるんですけどね、それが95分も続いてごらんなさいな、もう勘弁してくれ、ってなりますよ、誰でも。
毒を持って笑いに転ずる調子がないわけではありません。
突然、デデンと効果音が鳴って、急に早回しされたかと思えばババーン!と男の顔がアップになるギミックが何度かあったり、主人公の旧来の知人とコメディのような掛け合いがあったりと、緩和は存在してるんですけどね、ストーリーのベースにあるのが真綿で首を絞められていくような転落の構図なんで、笑いよりもすくわれない無様さの方がおしなべて濃い。
また、たいして何事も起こらないんですよ、物語そのものに。
それでいて主人公はどう考えてもクズときた。
特にエンディングなんて、さんざん好き勝手やっておきながら、無一文になってようやく娘のことを思い出すのかよ、お前は、と呆れ返るひどさでして。
自己完結の手前味噌もここまできたら何も言うことないわ、みたいな。
ラストもいまいちよくわからない。
突然、ぷつん、と切れてしまったかのように終わるんですね。
いったい監督はなにをこの映画で描きたかったのだろう?と考え込んでしまいましたね、私は。
どこか俯瞰する目線があることは確かなんです。
エンディング寸前に、危険!映画館を出るならあと30秒以内に!とテロップが流れたりと、遊んでるような節もある。
私が一番近い、と思ったのはジュネのデリカテッセン(1991)なんですけど、あそこまでドタバタ調に吹っ切れてるわけでもないですし。
なんだか中年のための内向きなパンクロックみたいだなあ、と思ったりもしましたね。
モラル無視のアナーキーってのはこういう醜さなんだよ、と反吐ぶちまけてる感じ。
それを照れ隠しで色々小細工してみました、的な。
独特な一作ではありますね。
これが面白いのかどうかは書いてる今でもよくわからなかったりはしますが。