アメリカ 2017
監督、脚本 ポール・シュレイダー

この映画を見るにあたって「今、アメリカの古い教会がどのような状況にさらされているか?」を、まず知っておかないと、おそらく監督の伝えたかったことは半分も理解できないことであろう、と思われます。
そりゃ誰のことを言ってんだ?って、私のことなんすけどね。
いや、面目ない。
なんかもう、うじうじと煮えきらねえ牧師が自家中毒気味に自分を追い詰めて、ああ面倒くせえ映画・・・と思ってたんですが、違った。
背景がまるで違った。
把握しておかないといけないのは、共和党の支持基盤がキリスト教福音派であること、及びキリスト教徒の4人に1人は福音派であり、現在彼らはメガチャーチと呼ばれる巨大教会で信仰を運動化していること、それにより地方の小さな教会に足を運ぶ人がほとんどいなくなってること。
つぶれかけちゃってるんですね、昔ながらの古い教会は。
で、主人公はそんな古い教会の牧師。
もう日曜のミサに全然人が来ません。
自前じゃやっていけないから、運営資金を地元の大企業に拠出してもらってたりする。
もう、出足くじかれちゃってるんです。
なにかやろうにも、スポンサーのご意向を無視して行動することはできないし、そもそも信者が居ないって話で。
そんな彼のもとに、「環境問題に悩む夫」の相談をもちかけてくる女が現れるんですね。
簡単に言っちゃうならグレタちゃんの大人版だ。
完全にこじらせちゃってる。
牧師はなんとか説得を試みようとするんですが、本人の考えや思想とは裏腹に、環境問題そのものにつっこんでいけない自分が存在してるわけです。
なぜなら、スポンサー企業がCO2をバンバン排出してる「温暖化対策はやりません」という会社だから。
ここにキリスト教福音派と共和党の関係性を縮図化した物語のテーマがある。
描かれているのは、権力と結託し、原理主義を貫こうとする多数派に、穏健派である一個人がどう抗していくのか?
はい、もう結論出てます。
抗する術なんざ、あるはずもありません。
そこでようやく物語は前置きを終えて、私が最初に書いた「うじうじと煮えきらねえ牧師が自家中毒気味に自分を追い詰め 」る状況に至ることとなる。
つまり、絶望前提なんですよね。
出来ないことがありすぎる牧師の徒手空拳、苦悩が切々と綴られてる。
これ、仏教も神道もジーザスも平気で全部丸呑みにしちゃう日本人の感覚からしたらなかなかわかりづらいし、知ろうとしなければ入ってこないアメリカの現実だとは思うんですが、我が国における与党と霊○会、創○学会の関係性等、ほんの少し目を凝らしてみればたやすく腑に落ちる裏事情だな、と思ったりもする。
そこを踏まえて、初めて牧師の内面に思いを馳せられられるようになる、という仕組みなんですね。
私は最初、なぜ牧師は最終的にあのような行動をとったのか、よくわからなかったんですが、色々調べてみて、ようやく今の段階で彼の苦しみを悟れる状況になりましたね。
そうか、これは緩慢な自死のプロセスだったのだ、と。
信仰が人を救うとはどういうことなのか、それを真正面から問いかけてる作品だと思います。
もう本当に重い。
なんかもう狂ってるのは社会そのものじゃねえのか?という気さえしてくる。
ただですね、背景を理解していたとしてもラストシーンは非常に分かりづらいです。
なぜあんなことになっちゃってるのか、私はとっさにわからなかった。
えっ、メロドラマオチなの?この重厚な内容の作品で?みたいな。
個人的には「赦し」をイメージさせるシーンであってほしかった、と思うんですが、これは色んな意見があることでしょう。
あと、終盤で浮遊シーンがあるんですけどね、あれは興ざめしかねない、と少し思いましたね。
胡散臭くなっちゃうんですよね。
構想50年のうたい文句に恥じぬ作品だと思いますが、簡単には懐にはいらせてくれない、そんな印象も受けました。
それでいて、この映画を「気づき」とすることもできる。
見る価値はあるんじゃないでしょうか。
ポール・シュレイダーの並々ならぬ意気込みは感じました。