イタリア 1942
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
原作 ジェームズ・M・ケイン
あまりに邦題がかっこいい、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの処女作。
しかしながらなぜか原題はイタリア語でOSSESSIONE。
これ、妄執って意味らしいですが、なんで原作通りのタイトルにしなかったのか?というと、制作側が原作者に許可を取らずに映像化したから、らしいです。
1940年代の著作権がどうなっていたのかはしりませんが、まあ、普通に考えて駄目ですよね。
そのせいでこの映画は1979年まで日本で公開されることがなかったとか。
うーん、仕事が雑だなあ、無許可のままだなんて。
非難されることは予想できただろうに。
どちらかといえば後年、ジャック・ニコルソン主演でリメイクされた同タイトルのアメリカ映画のほうが有名かもしれませんね。
エロい、と評判になったみたいですが、私は未見。
ま、至極簡単に説明しちゃうなら、痴情のもつれの果てに待ち受ける悲劇を描いてるのが本作ですんで、時代さえ許せばこのヴィスコンティ版もエロくなったのかもしれませんけどね。
しかしいつの時代においても不倫ってのは救いようがないなあ、と。
背徳の関係性に見境なく燃え上がっちゃうのは、およそ80年前といえど変わらずか、と。
で、大抵は想いが成就しちゃうとうまく行かなくなったりするんですよね。
そういう意味での作品のテーマ性は、驚くほど古びていない、と言えるかもしれません。
凝りもせず、似たようなことをやってる方々は現代社会においても大勢おられるかと。
生活の澱に蝕まれ、くたびれた隣の唐変木に疲れはて、ここではないどこかに刹那の夢を見る浅はかさは、もはや人間の業といっていいのかもしれません。
それとも、結婚制度の欠陥とでもいうべきか。
昨今の正義感に燃えるネットの皆様方がこの映画をご覧になれば「自業自得、自己責任」と一刀両断なんでしょうけど、私は年食ってるせいもあってか、なんだか切なくなっちゃいましたね。
うまくいくはずないのに、きっとうまくいくよ、と共同幻想を抱いちゃってるのがね、哀しいというかあわれというか。
またヴィスコンティが処女作とは思えぬ精緻な作り込み、細やかな演出、高い構成力で悲劇を丁寧に彩りやがるんですな。
ネオリアリズモの先駆的作品と言われていることにも納得。
驚きの展開や予想外のオチが待ち受けてるわけではないんですけど、もし不倫映画というジャンルがあるのだとするならば、お手本となる一作かもしれませんね。
エンディング間際のシークエンスなんて、迫りくる破滅を儚さで染め上げる詩情すら漂ってましたし。
余談ですが本作に郵便局員は重要人物として登場してきません。
二度ベルを鳴らしたりもしない。
アメリカでは郵便配達時に、郵便であることを知らせるため、必ず2度ベルを鳴らす習慣となっていることが小説の内容とかぶってる、とジェームズ・M・ケインは思ったんだとか。
なんなんだ、それ、さっぱりわからん。
時代の風雪にさらされるも、大きな劣化を感じさせないのがこの映画の凄みかも、と思ったりしました。