ハンガリー/フランス 2018
監督 ネメシュ・ラースロー
脚本 ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイエ、マチュー・タポニエ
第一次世界大戦前夜のオーストリア=ハンガリー帝国を舞台に、高級帽子店へ職を求めた女の不可解な行動を描いたミステリ。
監督はサウルの息子(2015)で一躍脚光をあびたネメシュ・ラースロー。
閉塞的な絶望感が尾を引く嫌なホロコースト映画でしたが、これはこれで2015年の大きな収穫だった、と私は思ってて。
・・・その割には否定的なことしか書いてませんね、私。
あれ?
まあ、酔っちゃったからなあ、見てる途中で。
酔いが収まらぬ状態で文章とか書いちゃいかんな、と自省する次第。
で、本作なんですけどね、割と正念場なんじゃないかな、と思ったりしてたんです。
なんせサウルの息子はハンディカメラをPOV風に用いて主人公以外をフォーカスアウトするという、特殊な撮り方をしてましたから。
同じことを2度はやれないだろう、と。
アレはアレだけの手口。
普通ならね。
ところがだ。
また同じことをやっちゃったりしてるわけだ、この監督。
主人公にへばりつくように寄り添うハンディカメラ、風景や他者のフーカスアウト、なにかというとアップでPOV風。
だからそれは見てて酔うんだって、私の場合!
うーん、なぜこだわる?
その理由が私にはわからん。
サウルの息子の場合は心象風景を映像化するという意味において画期的だったかもしれませんが、この手のミステリで同じことをやって何を表現したいのか?が私には見えてこない。
もうね、疲れるんですよ、単純に。
映像に奥行きがないから。
さらにはそんな苦行を観客に強いておきながら、内容自体も非常に不可解で理解しづらいときた。
女が帽子店の求人に応募した、と。
どうやら帽子店は女の亡き両親が立ち上げた店みたいだ、と。
まず、この時点で、なぜ女が帽子店で働くことにこだわるのか、さっぱりわかりません。
店の経営権を返せ、ということならまだわかるんですけどね。
なんの目的があって、どのような動機で、一店員として人は足りてるという帽子店に居座ろうとするのか、まるで不透明。
そうこうしてる内に、女には兄が居たみたいだとわかる。
執拗に兄を探す女。
もう、他者に止められようが、危険だと言われようが、邪険にされようがひたすら動き回る女。
とりあえず、色んなことに首をかしげたくなります。
帽子店の主はなぜ女をさっさと追い出さんのだ、とか。
なんでどいつもこいつも徹底して無表情なの?とか。
そもそも女が何をしたいのかもさっぱりわからんのに、突然兄探しとか、店の秘密を暴くだとか、あれこれ後付けで盛られていってもどれひとつとして私は咀嚼できないよ?とか。
ひたすら断片的に情報を小出しにしながら、謎めかすこと142分。
でね、びっくり仰天なことに最後まで見てもすべてはまるで解き明かされないままなんですよ。
丸投げ、いやさ全放置。
もう俺の気持ちがサンセットだっ!つー話で。
近年見た映画の中で最上級に疲れましたね、この作品。
はっきり言おう、私にはわかりません。
ラストシーンからあれこれ読み取る人もいるんでしょうけどね、それも含めて私にはもうわからん。
監督は「最近の映画はわかりやすすぎる」とか言ってるみたいですけどね、わかりにくいことに興味を持ってもらうためには、わかりにくさを上回る強いセールスポイントが必要なんだよ、と私は思うわけです。
あったか?それ?
さよなら、ラースロー。
私はもうあなたについていけない。