アメリカ 2004
監督、脚本 エリック・ブレス、J・マッキー・グルーバー

時間を遡行できる能力を持った男が「過去の改変」に手を染め、袋小路に追い込まれていく様子を描いたSFサスペンス。
この作品ならではの設定と呼べるのは、過去に第三者としてタイムスリップするのではなく、選択した過去のある地点に存在する「自分自身」に意識が転移する、としたルール作りですかね。
まあ、回りくどくなくていいかな、とは思います。
大人になった主人公が等身大で過去に現れてあれこれ画策するんじゃあ、なにかとテンポも悪くなるでしょうし、辻褄合わせも大変でしょうしね。
いや待て!「大人の自分」が強引に転移してきた場合、その時点での「子供の自分」の自我なり意識はどうなってるんだよ?!とつっこむ人もいるかもしれませんが、そこはあえて目をつぶることにしましょう。
話が進まないですしね、うん。
冒頭、カオス理論などという御大層なお題目を披露してますが、過去に干渉すれば未来が改変される、というのは日本人的には至極当たり前の常識なんじゃないか?と実は私は思ってて。
わざわざ蝶のはばたきを例に説明してもらうまでもない。
なぜかというと、日本には藤子不二雄が居て、ドラえもんが国民的アニメだったりするから。
この映画で起こり得た事象の全ては、のび太の机の引き出しを開けることで全部理解できるはず。
ですんで主人公がしでかしたことで、あっ!と驚いたり、興味深かったり、ってのは私の場合、あんまりなかった。
むしろ目についたのは、主人公の立ち回りの悪さばかりで。
いい大人が「たかが子供のやらかすこと」をね、もう少し上手に阻止するなり、誘導するなりできんのか、と。
全部行き当たりばったりでなんとかしようとするんですよね。
そりゃ何度タイムスリップを繰り返しても上手に改変できるはずがないわ、と呆れる無計画さなんです。
もういいからお前はドラえもんに泣きつけ、と思わず助言したくなるほど。
結局この映画が描いていたのは、人あらざる能力を持ったはいいが、不器用すぎて特殊能力を上手に活かせず、えーい、もういい、最初から全部なかったことにする!と開き直った唐変木の悲喜劇でしかない、と私は思うんですね。
それを「儚い」とか「切ない」とか言われちゃうと戸惑ってしまう、というのが正直なところ。
だいたいですね、ヒロインに対する感情自体も改変を失敗した後の「後付け」で芽生えたものだったりしますし。
自分の能力に気づくまではヒロインのことなんてすっかり忘れちゃってたわけですから、主人公。
それがいつのまにか本物の愛にすり替わっちゃってるのも解せないですしね。
私が考えるに、この映画が導き出すべき真のエンディングとは「たとえ改変できる力があろうと、改変してはならない、むしろ改変は無意味である」とした達観だった、と思うんですね。
それでこそ獄中につながれた親父の存在も生きてくる。
改変のテクニックにばかりこだわるから主人公のマヌケぶりが浮き彫りになっちゃうわけで。
一番肝心な時間に対する考察も、数十年分の記憶を脳が書き換える、などという訳のわけらん解釈してて興ざめですし。
タイムスリップを小道具とした浅い恋愛ドラマ、というのが私の総評。
うーん、人気作かあ・・・。
私にはわからん、すいません。
みんなラストシーンに騙されちゃってるんじゃあ・・・という気がしなくもありません。