スプリット

アメリカ 2017
監督、脚本 M・ナイト・シャマラン

スプリット

やっぱりね、今時解離性同一障害、いわゆる多重人格ネタをストーリーの核に持ってくる、という感覚そのものがシャマランの「ズレたままいまだ修正されることのない創作センス」を如実に語ってるように私は思うんです。

24人のビリー・ミリガンを例に持ち出すまでもなく、90年代以降、腐って染み出すレベルでこの手の題材は流用され続けてきてますよね。

もっと遡るなら、かの有名なサイコ(1960)だってそうなわけだし、イブの三つの顔(1957)なんてのもあった。

はっきりいって人格障害ネタの井戸はもう枯れちゃってますよ。

桶を投げ込んでみたところで、カランと乾いた音しか響いてこない。

それでもやる、ってんだから何か新しい解釈でもあるのか、と思いきや、なんら類似作から発展した考察があるわけでもないですしね。

もうここまでくると解離性同一障害を病んだ人間は全部犯罪者だとでも言いたいのかよ、と勘ぐりたくもなってくるわけで。

まあ、アメリカ人はこういうの好きなんでしょうけどね。

実際ヒットしてますし。

でも私の感覚からするなら、同じことをなぞるだけでそこになんら斬新な切り口、新解釈の見られない創作なんて、蔑視や差別を助長すると言われても仕方がない、と正直思います。

表現は「人を傷つけるかもしれない」という躊躇、逡巡との葛藤の末、発露するものだと思うんで。

ありきたりな焼き直しにその覚悟はあったのかよ、と。

ま、単にスリラーとして見るなら良く出来てるかもしれません。

いきなり犯人が車に乗り込んでくるオープニングは相当怖かったですし、担当医とのやりとり、ヒロインの過去を挿入しながらのシナリオ展開は物語の背景をじっくり炙り出していて、ドラマの肉付きを豊かにしてた。

そこは腐ってもシャマラン、さすがに手慣れたものだなあ、と。

でもやっぱり、既視感は拭えない。

オチもなんとなく消化不良。

そんな理由で助かっちゃうわけ?みたいな。

エンディングにあの人が出演してることで話題になったみたいですが、これもねー、アンブレイカブルがお気に入りだった人にしか伝わらない仕掛けですよね。

私はシックス・センス以降のシャマランを全く評価してないんで、ああ続編なんだね、程度の感慨しか湧いてこず。

原点回帰、と言うよりは「売れなくなったバンドが昔の作風に戻る」みたいな常套手段じゃねえかよ、としか感じられなかった。

いやね、シャマラン、嫌いなわけじゃないんです。

実力のある監督さんだと思ってます。

でもやっぱりシナリオ書くのはもう辞めたほうがいい、とこれまで何度も思ったことを改めて再確認した一作でしたね。

これ、シャマランじゃなきゃ未体験ゾーンの映画たちでもおかしくねえぞ、と思ったのは私だけでしょうか。

とりあえずアイデンティティー(2003)でも見て、なにが駄目なのか、気づいてほしいところですね。

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