彷徨える河

コロンビア/ベネズエラ/アルゼンチン 2015
監督、脚本 シーロ・ゲーラ

彷徨える河

アマゾン川流域に唯一人生き残る滅ぼされた部族のシャーマンと、1人のドイツ人民俗学者の「幻の花ヤクルナ」を探す旅を描いた作品。

見進めていくとだんだんわかってくるんですが、この物語は2つの時系列が存在してまして。

ひとつは、病にその身を侵されてヤクルナでしか回復は見込めないと告げられた民俗学者とシャーマンの道行きを追うエピソードで、こちらは民俗学者が老人、シャーマンは青年です。

もうひとつが学術的興味からヤクルナを手に入れたいと願う民俗学者とシャーマンの道行きを追うエピソードで、こちらは民俗学者が青年で、シャーマンが老人。

で、ややこしいのは民俗学者もシャーマンも、全くの同一人物である、という設定。

いやもう、わけわからんですよね。

書いてる私もわけがわからん。

時間が誰の上にも平等に流れるものであるなら、青年同士の民俗学者とシャーマン、老人同士の民俗学者とシャーマンが出会わなきゃならんはずなんです。

そうであったなら、なにも時系列を2つに分けて物語を進行させる必要もない。

けれど何故か二人は時間軸のある地点でお互いを置換したかのように、時を遡行して違う姿で2度出会うんですよね。

これがいったい何を意味してるのか、ということについて解説しようとする意図は作品には全くありません。

というのも実はこの映画、20世紀初頭にアマゾンへと足を踏み入れた実在する探検家の手記を元に制作されてるから、なんですよね。

だからこのややこしさって、仕掛けじゃなくて、ありのままなんだ、ということになるわけです。

となると、これまた見方も変わってくるもので。

浮かびあがってくるのは、原初の貨幣を用いぬ暮らしをしてきた先住民族が、何を後生大事に守ってきて、侵略者たちは何を破壊してしまったのか、という部分。

タイムパラドックスを無視したような筋立ては、そもそもがロジックの外側にあると言っていい。

いうなればそれは、アマゾンという未開の密林が先史の頃から秘匿してきた「得体のしれぬなにか」を時で装飾したにすぎないんであって。

ちょっと見たことがないタイプの映画でしたね。

一言でいうなら隠然と蠱惑的。

かといって、ホドロフスキーのように前衛でシュールってわけでもない。

きちんと背景に先住民族の暮らしや文化が波打ってるんです。

その上でのマジックリアリズムだから、理解できないとか、ついていけない、というのとはまた違う。

西洋的合理主義や科学至上主義では触れることすらできない深遠で呪的ななにかを、覗きこんだような気分になる一作。

あえてモノクロで撮影したのも神秘性を深める意味では効果的だったように思います。

124分という長丁場で、決してとっつきやすいわけでもないんで万人におすすめできる作品ではないと思いますが、ハリウッドに毒された脳を一度リセットするには最適かもしれません。

ひどく惑わされます。

惑わされるんですが、なんか凄いものを見た気がする、と見終わって私は思った。

私の筆力では感じたことをすべて伝え切ることができないんですが、とりあえずシーロ・ゲーラ、只者じゃないです。

強烈なオリジナリティを誇っていることだけは保証します。

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