イタリア 2016
監督、脚本 ジュゼッペ・トルナトーレ

亡くした恋人から届くメールや動画などの「想いの残滓」を、少しばかりのミステリで味付けした作品。
プロットは独特だった、と思います。
病気のせいで先立ってしまった老齢の男性が、残した恋人の傷心を気遣うあまり生前の綿密な計画のもと、周りの人をも巻き込んでヒロイン、エミリーに「見てたのかよ!」と言いたくなるようなタイミングでメッセージを送り続けるストーリーは、不思議な共時性に満ちていて、先の読めないおもしろさがありました。
しかしまあ監督はつくづくロマンチストだなあ、と思ったりもするんですけどね、擦れたオッサンが見ててもなにやらドキドキするものがあったんだからそこは揺るがぬ実力という他ない。
さすがはトルナトーレ。
ただね、冷静に見るならこれって一方通行な押し付けでもあるわけですから、色々危ういことは危ういんですよね。
いやこれゴーストなストーカーじゃないかよ!とつっこむ人も中には居るかもしれない。
絶対的な信頼関係がないと成り立たない物語であり、設定なわけですから。
そこに現実味のないファンタジーだ、と揶揄される隙は確かにある。
まあ、そう感じさせないための予防線は張ってありますけどね。
でもね、そこは監督の思惑にのっかってやりましょうよ、と私は思うんですね。
きっとトルナトーレは本物の愛を失ってしまったときの癒やされ方を彼流のリリシズムでもって描きたかったんでしょうし。
私が思うに、この作品の抱える不可解さはもっと別のところにあって。
やっぱりね、なぜヒロインは20才やそこらの学生で、彼氏は爺さんの教授で、それでもって不倫なんだよ、という点が最後までひっかかってくるんですよね。
不倫はダメだ、と優等生的な紋切り口調で非難するつもりは全くありません。
そんなものは当事者同士で好き勝手やってくれりゃあいいんです。
他人が口を挟むことじゃない。
でもそこに「絶対の愛」を見出されて、さらには周囲の寛容、温かな心配りまで持ち込まれてしまうと、それはそれで開き直りすぎじゃないのか?とどうしても思えてくるんですよね。
誰かを傷つけることで成立している関係なわけですから。
それを恋愛至上主義的に美化されてしまうと、その影で泣いてる人はどうなる、ってことであって。
結局ヒロインの想いを貫く上で、その足元には踏みつけにしているものがあるんだよ、という「覚悟みたいなもの」に相当する描写が欠落してるんですね。
それが証拠に肝心の奥さんが一瞬たりともヒロインに絡んでこない。
ま、2人の交流を描くと観客が浸れなくなるし、色々ややこしくなっちゃうからでしょうね。
結果、誰の願望を老い先短い爺さんに投影して自己陶酔してるんだよ、といういやらしい解釈もどうしたって成り立ってしまう。
辛辣すぎるかもしれませんけどね。
でもこれ、さざなみのようにね、老夫婦をキャスティングして同じことをやる、もしくは若いカップルでやることも工夫次第では可能だったと思うんですよ。
そうしなかったことに、意図的な作為を感じないってのは難しい。
だからエンディングも仕掛けを回収してヒロインを別のステージへ押し上げるものでなく、中途半端に尻切れトンボになってしまうわけで。
何故なら、去りゆく老人の悲哀を美しくメロドラマ風に描くことに主眼が置かれているから、ですよね。
久しぶりに見たジェレミー・アイアンズは渋い演技をしてましたし、ヒロインのオルガ・キュリレンコも健康美溢れててよかったし、物語の引きもうまい、煽り方も上手、シーンの転換に落差もあって退屈しない、けれど終わってみれば、なんだったこの映画?と小首をかしげてしまう、そんな作品でしたね。
素直に浸りたかったのに、浸らせてくれない、私にとってはなにやらくすぶるものが残る一作。