ハンガリー 2015
監督 ネメシュ・ラースロー
脚本 ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイェ

アウシュビッツ強制収容所でゾンダーコマンドとして働くサウルの救いのない日常を描いたホロコースト映画。
何をさしおいてもまず指摘したいのは、アスペクト比4:3のスタンダードサイズで撮られた独特な映像。
標準的な比率を採用することでなにを表現したかったのか、そこはよくわからないんですが、問題はカメラの焦点の合わせ方でして。
どのシーンにおいても場面をリードする人物にしかピントを合わせず、背景や他の人物はピンボケのまま、という恐ろしく変わった撮り方をしてるんですね、この監督。
なんかもうね、それぞれの登場人物は全員が額の50センチ先ぐらいに自撮りカメラを装着してるんじゃないか、ってな映像なんですよ。
で、これがですね、その効果云々以前に凄く目が疲れるし「酔う」んです。
平気な人は平気なのかもしれませんが、私はダメ。
開始30分ぐらいで途中で休憩を挟まないと見れない状態に。
まあ、なにをやりたかったのかはわからなくはありません。
主人公の内面、心象風景をも反映した主観的映像を再現したかったんでしょうし、死体が足の踏み場もなく転がる凄惨な風景をリアルに映したくなかったんでしょう、きっと。
でもね、それが物理的に見る側を選ぶ結果になってちゃあ、よろしくないわけで。
一切の奥行きが感じられない、カメラワークが存在しない、という点において、私にとってこれはPOVと同じ。
そして肝心なのは、この題材ってPOVに頼らなきゃ伝わらないような内容なのか、と言う点。
率直に言って手段が先行気味な気がします。
少なくとも全編同じ方法論を貫き通す必要はなかったんじゃないか?と。
物語だけに着目するならね、決して不出来ではないんです。
冷徹極まりない目線で一切の希望を排除したその先を淡々と編み上げたセンスには脳天をガツンとやられた。
このテーマで湿っぽくならない、情に訴えかけない、というのもすごいと思いますし。
なぜこれを普通に撮っちゃあダメだったのか、私が苦言を呈したいのはその1点のみ。
理屈じゃないんですよ、生理的にしんどいんです、見てて。
ハードの問題、といったほうが近いかも。
独自なアイディアが作品を窮屈にしてる、というのが私の結論。
ありかなしかで言えばありなんでしょうけど、突飛さが置き去りにしていったものもいくつかあるよなあ、と思う次第。