イギリス 1984
監督 マイケル・ラドフォード
原作 ジョージ・オーウェル
1949年に発表された、ディストピアSFの嚆矢とも言われるオーウェルの小説を映画化した作品。
1956年に一度映画化されてるんですが、そちらは未見。
どっちかというと1956年度版のほうが評価は高いみたいですね。
はたしてこの作品をリメイクと呼んでいいのかどうか、調べた限りでは不明。
本作の場合、小説の舞台となる1984年に合わせて映画を公開することで観客の興味をひきたかった、ってのも少なからずあったようで。
さて、それは成功したのかどうか、うーん、スベったんじゃねえか?という気がしなくもありません。
なんせ原作は東西冷戦が形をなしていく50年代、爆発的に売れ、オーウェリアンという言葉まで生み出し、アメリカじゃ反共主義のバイブルとまで言われた一作らしいですから。
そういう作品を映像化するのって、やっぱりハードルが高いでしょうしね。
で、肝心の内容なんですが、今の感覚ではディストピアSFというより、ガタカ(1997)や未来世紀ブラジル(1985)あたりの雛形のようにも感じられましたね。
全体主義にどっぷり染まった管理社会をシニカルかつ生真面目に描いている、といった印象。
物語の舞台となる架空の1984年の世界では、3つの大国、オセアニア、ユーラシア、イースタシアによって分割統治されており、思想・言語・恋愛などあらゆる市民生活が徹底的に統制、テレスクリーンと呼ばれる双方向テレビによって常に市民は当局に管理されている状態でして。
主人公は真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業に務める中年男性スミス。
そんなスミス、なにをとち狂ったのかある日、同僚の女性と恋に落ちてしまう。
まあ、うまくいくはずがありません。
すぐにバレます。
んで、バレた結果、どうなったのかがストーリーの着地点。
きな臭さを増している昨今の世界情勢下において、この物語が暗示する救われなさは決して70年前に執筆された古臭さを匂わせるものではありません。
それは間違いない。
一歩間違えたらまたこんな恐怖政治な世界がやってくるんじゃないか、といった怖さは、今だからこそ身近なものとして通用する気がしなくもないです。
そういう意味では時代を超えてピントがずれてないと言えるでしょう。
ただね、映画そのものの出来があんまり芳しくないんですよね。
悪くいうならただひたすらどよーん、と暗いだけ。
落差がないし、メリハリもない。
例えば主人公が恋に落ちた場面とか、すべてをかなぐり捨てる勢いでこの世の春を演出しなきゃいけないと思うんですよ。
それでこそラストシーンの衝撃も色を失うというもの。
凄絶な洗脳教育シーンとか、集会のシーンとか、見せ場はいくつかあるんですが、暗い物語だから全体的なトーンも暗くしときゃいい、ってのはやっぱり安直だよなあ、と。
あくまで想像ですけど、原作に忠実であろう、としすぎたのかもしれません。
1984という有名な小説がどういう物語であったのか、それを113分で知るには恰好かもしれませんが、映画単独で評価する分には決しておすすめとは言い難い、そんな1作でしたね。
オーウェルという作家の凄みはとりあえず伝わってくる、それが唯一の収穫だったかもしれません。