1970~0年代の石川賢、18作品

魔獣戦線
1975年初出

デビルマンに呼応するかのように、人類と神のハルマゲドンを描いた石川賢初期の傑作。
ベースにあるのはキリスト教的史観で、題材やテーマも含め、なにかと永井豪と比較される運命を負う作品ではあるんですが、自らの肉体に敵を取り込んで自分の能力とする、とした主人公の超常能力の設定は、今でこそ珍しくない発想であるものの、当時はそのグロテスクさも含め画期的なダークヒーロー像の創造であったように思います。
後半物語をはしょってしまったような印象はありますが、ヒロイン天外真理阿のショッキングな命運はデビルマンにおける美樹の最後とかぶってトラウマもの。
またここに私は永井豪と石川賢の作家性の違いを見るわけです。
あまりにも深い絶望を終末のカタルシスで彩るしかなかった永井豪と、ともに絶望の道行きを歩もうとする石川賢のスタンスの違いは、晩年、如実に作風に反映されていったように思います。
今の読者が読んでどう感じるか、全く予測がつきませんが、ダイナミックプロのアシスタントであるが故の絵柄の相似を超えて、永井豪とは似て異なる名作を作者は練り上げた、と私は思っております。


セイントデビル~聖魔伝
1976年初出

講談社文庫版が発売される際に何故か「聖魔伝」から「セイントデビル」にメインタイトルが変更。
詳細は知りません。
師匠である永井豪のデビルマンような作品が描きたい、と辻真先とタッグを組んだのが本作らしいんですが、正直微妙な作品。
デビルマンに肉薄する、と言うなら間違いなく同時期に連載されていた魔獣戦線の方が素晴らしい出来で、本作の場合、同じ題材で似たようなテーマに挑んだもののどこか上滑りしてしまった印象が濃い。
端的に言うなら、二元論的な神と悪魔の闘いに人が巻き込まれちゃって大変だ、でこの物語は終わってしまっているんですね。
そもそも主人公のテレサとユンクの姉弟からして人間ではないわけで、その不遇、不幸をまことしやかに描かれたところで非常に感情移入しにくい、というのはどうしたってあります。
スケールは大きいんですが、だから結局なんだったんだ、って感じ。
いっそのこと神々の世界を描く異世界ファンタジーにしてしまえば良かったのに、と思ったりもするんですが、やはり学園もの的な展開はこの時代は必須だったんでしょうか。
 原作まで迎えて挑んだ作品ですが、うーん、失敗作では、と。


時空間風雲録
1979年初出

<収録短編>
時空間風雲録
次元生物奇ドグラ
邪気王学園
芸夢E2

私が読んだのは大都社版ですが、後に双葉社からも同タイトルで単行本が発売になってます。
収録短編に違いがあるかもしれません。 
表題作の中篇はスケールこそ大きいものの、ところどころギャグタッチで、どちらかといえば少年向き。
格別特筆するものがあるわけでもなし。
この短編集で必読なのはやはり「次元生物奇ドグラ」でしょうね。
虚無戦記シリーズにも後に組み込まれましたが、とてもコミックボンボンに掲載されたとは思えぬ薄気味悪さ、後味の悪さで、異彩を放ってます。
芸夢E2は川又千秋の短編を漫画化したもの。
ただ、次元生物奇ドグラが別の単行本でも読めることを考えると、まあ、ファン向きの一冊、かもしれません。


宇宙長屋
1979年初出

週刊漫画ゴラクに連載されていた連作長編を双葉社が00年に再単行本化したもの。
落語でおなじみの熊さん八っつあんがドタバタ劇を繰り広げる艶笑コメディなんですが、そこは石川賢ですんで舞台は宇宙。
なんせなめくじ長屋が単独で地球の軌道上を回る衛星のひとつ、って設定ですんでばかばかしいというか、ふざけてるというか。
けどまあ、古めかしいものを新しい器に盛るのがSFなのだとしたら方法論としては正しい、と思ったりもするわけです。
SFなギミック、ガジェットをあちこちに散りばめながら、ミクロの決死圏をやってみたりスターウォーズをやってみたり民話っぽいことをやってみたりと、デタラメきわまりないんですが、こういうアプローチは割と好きですね、私は。
真面目に読んじゃあいけませんけどね、悪ふざけの背後に「SFファンをくすぐってやろう」とする作者の遊び心が透けて見えるのがなんだかいい。
日本でSFがまだ元気だった頃を偲んでしまいそうになる1冊ですね。
突出した出来、ってわけでもないんですが石川ギャグの秀作を選ぶとするなら候補にあがる一作と言えるんじゃないでしょうか。


伊賀淫花忍法帳
1978年初出

76年~79年の4年間で廃刊した漫画ジョーという青年漫画誌に掲載された、同主人公の短編を集めたもの。
かつてはオハヨー出版という謎の出版社から同タイトルで単行本化されてましたが、何をとち狂ったのか00年に双葉社が「時元忍風帳」を併録の上、再単行本化。
虚無戦記シリーズが連続刊行されてる時でしたね、売れる、と思ったんでしょうね。
見事目論見ははずれ、いまやとんでもなく値段がつり上がっておいそれと手が出せぬ一冊になっちゃってるわけですが。
でもまあ、ご安心を。
はっきり言ってマニアならともかく、ファンが大枚はたいて買うような内容じゃないです。
やってることはいわゆる山田風太郎忍法帳的世界観での艶笑コメディ。
師匠である永井豪のデタラメなあのノリを想像してもらえればわかりやすいかと。
もうね、滅茶苦茶です。
なんせね、くのいち城を守るお色気女忍者を倒すべく、ゲイの忍者と絶倫の巨根忍者が戦いを挑む、って内容ですから。
笑っていいのやら、呆れていいのやら。
あれこれ規制の厳しい今だとなかなかここまで露骨なことはできないだろうなあ、とは思いますが、それが面白いかどうか?ってのはまた別の話であって。
あんまり真面目に論じたくもないんですが、掘って~とあえいでるキャラが主人公ってあまりに野心的すぎる、と思うわけで。
山上たつひこでもそこまでセクシャルマイノリティに露骨じゃない。
女陰がブラックホールになってるネタにはちょっと笑ってしまいましたが、これね、評価不能ですわ、はっきり言って。
悪ノリだけで描きあげた、って感じですかね。
艶笑なりのエロへの執着なり、ドタバタなりの狂騒の極みを勘案してくれてたらまた違ったんでしょうけど、ほぼ勢い一発勝負ですしね。
「時元忍風帳」は比較的真面目な時代SFなんですけど、この一作のためだけに買う、というのもどうかと思いますし。
完全に石川マニアむけの1冊。
そんな人が今まだ居るのかどうかはわからんが。


5000光年の虎
1980年初出

あらぬ疑いから五体をバラバラにされ、無人惑星に生きたまま放置された男の復讐を描いたスペースオペラ。
もうオープニングからものすごいインパクトです。
巨大な水槽みたいなのに電極でつながれた男の首が、かっ、と目を見開きながらぷかぷか浮いてるシーンから物語は幕を開けるんですね。
周りには無残に惨殺された家族の死体。
主人公は動かぬ手足を水槽の中から見つめながら、来る日も来る日も復讐の事だけを考え続ける。
この残酷さ、忌まわしさはまさに永井豪の系譜。
どんな展開が待ち受けてるんだ、と手に汗握るわけですが、 実は本作、復讐譚としてはそれほど劇的ではなく、むしろ、どうやって主人公、虎は首だけの状態から脱することが出来たのかに焦点が当てられ、予想外なスケールでストーリーは変転するんですね。
一言で言うなら本気で宇宙SF。
なんだこれ、どこへ行こうというのだ、と初読時はとても驚かされました。
あれだけ強烈な幕開けが終盤においては単なるプロローグ扱いになっちゃってるのにもびっくり。
つまりは恩讐を超えた向こう側を石川賢は描こうとしている、ということ。
特筆すべきは想像力をかきたてる圧倒的画力、デザイン性でしょうね。
宇宙空間に半透明の巨大な赤子らしきものが浮遊してたりするんですよ。
これは間違いなく永井豪にはない発想。
残念ながらこれから、というところで終わっちゃってるんですが、この世界観はのちに虚無戦記シリーズとしてまとめられます。
余談ですが、私の読んだ徳間書店版より、後に加筆修正されたものがオススメ。
一連の石川宇宙SFの一角を担う一作。


桃太郎地獄変
1980年初出

<収録短編>
桃太郎地獄変
山姥
銀河サルカニ大戦
海底神話
雪女2486
次元冒険記
須平巣忍風帳
雀狂戦記

おとぎ話や民話をモチーフに、好き勝手SF的アレンジを施した短編集。
コメディタッチなものも半数ほどあり。
格別突出した内容のものがあるわけではないんですが、SF好きとしては発想の飛躍が楽しい、と言うのはありますね。
「山姥」が比較的よく出来ているか。
私にとっての石川賢はやっぱり長編向き、ですかね。
あえてどうしても抑えておかなくてはならない一冊、ってほどでもないのが評価に困るところ。


サザンクロスキッド
1982年初出

いかにもあの頃の、絵にかいたようなスペースオペラ。
まあその漫画だから絵に描いてはいるわけですが。
そんなボケはいいってか、すまん。
原作が高千穂遥だから余計にそう感じるのかもしれませんが「クラッシャージョー」や「ダーティペア」をそのままの世界観で石川賢が作画したようにしか思えません。
つまり、目新しく感じられるものがまるでないんですね。
似たような作品があまりにもありすぎて。
物語のプロットが作者の5000光年の虎に酷似しているのもマイナス要素。
エンディングだけが妙にSFしてるんですが、それでなにか挽回できてるのか、というとそうでもなく、似たような感じなら5000光年の虎の方があれこれ想像させるものがあって良かった、と思えるのがどうにもこうにも。
凡作でしょうね。
あえて今読むほどではない、というのが結論。
なぜこの内容で原作者が必要だったのか、私にはわかんないですね。


邪鬼王爆烈
1988年初出

天変地異により廃墟と化した関東で、拳が音速を超えて敵を爆烈させる世紀末救世主の活躍を描いたSFバイオレンス・・・って、北斗の拳やないかーい!と、石川マニアすらも巻き込んで怒号のつっこみが聞こえてきそうな頭の痛い一作。
主人公が僧侶だったり、敵が信長だったりと、妙に小手先なネオ戦国時代劇風で、石川賢らしさがなくはないんですが、じゃあおもしろいのか、と問われると、はい、とはさすがに答えられません。
掲載誌が途中で休刊してしまったので、ストーリーもこれから、というところで未完になっているんですが、たちが悪いのはこの作品がのちの虚無戦記シリーズに組み込まれてしまったこと。
ファンとしちゃあ、読まないわけにはいかないじゃないですか。
箸にも棒にもひっかからぬ、と言うのが正直なところなんですが、凡打も多いのが石川賢なんで、そこはもうあれだ、こういうものもあった、ということでそっと本棚の片隅に眠らせておくのが正解でしょう。
熱烈なファン向けです。


虚無戦史MIROKU
1988年初出

山田風太郎調の忍者ものを起点に、最終的には遠く離れた宇宙にまで想像の翼を広げた石川賢最高傑作
後にまとめられた虚無戦記シリーズの中核をなす作品、といってもいいでしょうね。
プロットの大枠は永井豪の黒の獅士に微妙に似てなくもないんです。
そこにひっかかる人も中にはいるかと思いますが、決定的に違うのは、やはり目線の高さ、でしょうか。
なにゆえ真田忍群と九龍忍群は存在するのか、御神器とはなにか、ドグラとはなんなのか、そのすべてが上質のミステリを紐解くように、すべて地球の外側へと昇華していくんですね。
この鮮やかな構成力、緻密極まりないデティール、すべての価値感をひっくり返す衝撃のエンディング、その発想の飛躍の見事さに唸らされる事、しきり。
少年向けの荒唐無稽な忍者もの、と思わせておいて、根底にあるのはゆるがぬSFである点が師匠をも追い越してインテリジェンスである、とでもいいましょうか。
なぜこの作品があまり話題にのぼらないのか、本当によくわかりません。
作画も以前に比べて格段に精緻で亜流のそしりを寄せ付けぬ迫力。
私の感覚ではここが石川賢の頂点
異形の架空忍者絵巻であり、80年代屈指のSFエンターティメントと推す次第。


スカルキラー邪鬼王
1990年初出

さて、石川賢といえば永井豪との共著によるゲッターロボシリーズが有名なわけですが、実は私、肝心のゲッター、どれも斜め読みしかしてないんですよね。
せめてゲッターロボ號ぐらいは完読しなきゃなあ、と思うんですが、これも途中で中断したまま単行本がどこかにいってしまってなにも書けない有様。
なぜそんなぞんざいな扱いなんだ、と問われれば、答えは簡単で、アニメのほうが圧倒的におもしろかったから、に他なりません。
やっぱり巨大ロボットものを漫画でやるのは難しい、と私は思うんです。
誌面ではどうしたってロボットそのものの迫力やスケールを再現できない。
やっぱりロボットが地響きたてて大活躍してこその魅力だと思いますし。
ただそれもアニメと連動していない、となれば話は別で。
敵はムー帝国、とか、80年代的アニメチックな定番に陥りそうな危うさもあるんですが、ペットの犬を巨大ロボット化するという発想はサイバネティックな新風景をこのジャンルにもたらしたようにも思います。
なんかこう巨大ロボなのに、邪悪で生々しいんですよね。
期待するものはあったんですが、これから、というところで突如連載中断。
続けばゲッターを超えたかも、と私は勝手に思ってるんですが、世間はやっぱりゲッターを石川賢に求めたのかもしれません。
個人的にはのちのエヴァンゲリオンを想起させるシーンもあったりして、未完ながら興味深い一作だと思ってます。
あーなんか色々もったいない、の一言につきますね。
大化けしたかも、とその気配だけを感じさせる一作。


ゲッターロボ號
1990年初出

いわゆる「ゲッターロボ・サーガ」と呼ばれるシリーズの中核を担う作品。
順番としてはゲッターロボ、ゲッターロボGに続く3作目、となります。
このあとに真ゲッターロボ、ゲッターロボアークが発表されてシリーズは終幕。
アニメで慣れ親しんだ人にとってはなじみやすい内容、と言っていいでしょうね。
時代に影響されてか、軍や諸外国との協調が描かれているのが興味深いですが、巨大ロボが敵のロボを粉砕する勧善懲悪な展開はセオリーどおり。
ちなみにテレビアニメ「ゲッターロボ 號」とタイアップして連載が始まった作品ではあるんですが、アニメとは微妙に設定、シナリオが違います。
そこを噛み砕いた上で、石川ファンとしては終盤の展開がやはり読みどころでしょうか。
虚無戦史シリーズにも似た色合いで、ゲッターロボ自体が神格化し、宇宙SFといってもいい観念的な飛躍が描かれてるんですね。
はっきりとしたオチがあるわけではないんですが、巨大ロボットものをまるで別のステージへと引き上げた手腕はまさに石川賢の独壇場。
強引につなげた印象は拭えない部分もあるんですが、私はこの頃の端正な作画でゲッターとその宇宙を読めただけで充分満足。
スカルキラー邪気王のエンディングは実はこうだったのでは、なんて邪推したりもしましたね。
ゲッターにこだわらずやって欲しかった、という思いも少なからずあったりはするんですが、これはこれでおさえておくべきでしょう。
かつてのゲッターロボではアニメに先んじられていたように思いますが、ここにきてゲッターは完全に作者のものになったように思います。
作者、最長連載作品。


新羅生門
1994年初出

やはり注目すべきは表題作の新羅生門でしょうね。
平安時代の羅生門を舞台に、陰陽師と魔物の戦いを描いたオカルトバイオレンスは当時の陰陽師ブームに触発された風を装いながらも虚無戦記シリーズに連なる「次元兵器ドグラ」との戦いを裏テーマにしていて、とても興味深いです。
もし虚無戦記年表を作るなら、この作品が最も古い時代のもの、となるのかもしれません。
ちょっとドグラが他の作品に比べて軟弱な気もしないでもないですが、ファンなら必読でしょうね。
ちなみに他の収録短編に格別突出したものはなし。 
新羅生門は後に発売された講談社文庫版にも再録されてますんで、どちらでチェックしても大丈夫かと。


ネオ・デビルマン
1999年初出

デビルマンに影響を受けたと公言する漫画家が一同に結集し、それぞれの解釈でデビルマンをトリビュートしたオムニバス作品集。
参加している漫画家は、

萩原玲二
江川竜也
寺田克也
石川賢
永井豪
ヒロモト森一
岩明均
永野のりこ
高寺彰彦
夢野一子
三山のぼる
とり・みき
風忍
田島昭宇
神埼将臣
安彦良和
黒田硫黄

の、計17名。
なぜ作者本人である永井豪までもが参加しているのかさっぱりわかりませんが、御大の作品ははっきりいって低調です。
あえてチェックするほどではなし。
自分なりのデビルマンをきちんと形にしているのは、やはり石川賢、岩明均、高寺彰彦、三山のぼる、黒田硫黄、といったところでしょうか。
石川賢の描くデビルマンなんて、本物以上に本物じゃないかと思えるほど精緻で、その思いいれの深さを伺える、というもの。
高寺彰彦の彫りの深い絵も完全にデビルマンの世界を自分のものにしている、といった感じ。
三山のぼるの西洋的忌まわしさただよう世界観も本編にはないもの。
で、中でもダントツに傑作なのが黒田硫黄のデビルマン。
まさかデビルマンをこんな形でロードームービー風に再構築してみせるとは思いもよりませんでした。
はからずも涙腺が緩みかけた。
恐ろしい名作だと思います、これ。
怪作、と言う意味では安彦良和のコメディ調デビルマンだったり、もう原作と全然関係のない世界に旅立っちゃってる風忍のデビルマンあたりでしょうかね。
個人的にはここにトニーたけざきを参加させて欲しかった、と思うんですがシリアスなのはもうやらないかな。
まあ、黒田硫黄の短編を読むだけで定価分払う価値はあります。
デビルマンファンなら間違いなく楽しめる短編集でしょう


虚無戦記
1999年初版

過去、石川賢が発表してきた作品の中で世界観を同じくするものを集め、ひとつのシリーズとして再構成したもの。
収録されている作品は、

新羅生門
次元生物奇ドグラ
ドグラ戦記
虚無戦史MIROKU 全5巻
5000光年の虎
邪鬼王爆烈
スカルキラー邪鬼王 全2巻

の、短編、長編おりまぜた全7作品。
もちろんファンであった私は全作品読んでいるわけですが、それぞれ加筆修正、増ページがある、となると買わないわけにいかない。
これらの7作品がどのように虚無戦記としてシンクロしていくのかも気になりましたし。
ところがです。
長年の謎であった、ラ・グース宇宙とはなにか、はるか遠い宇宙で繰り広げられるすべてを無にしようとするものとの永劫の戦いとはなんなのか、その謎がいよいよ解き明かされる!という段になって、第一部完・・・・。
愕然呆然仰天唖然。
そ・れ・が・知りたいが・た・め・に、読んだことのある作品でも辛抱して買い続けたのに、なんじゃそりゃあ!と怒り心頭
熱烈なファンであったが故に、サギじゃねえかよ!と思わず口走ってしまった愚かな私をお許しください。
でもね、描けないんだったらシリーズとしてまとめるべきじゃなかった、と思うんです。
たとえ酷評されることになろうとも石川賢はそれなりの結末をここで提示すべきだった。
自分でハードルをあげすぎちゃった、というのは私にも理解できます。
だけど、ここまでお膳立てを整えておいて描かない、というのはやっぱりなによりも一番の裏切りだと思う。
結果、ただの総集編になっちゃってますし。
以降、急速に醒めちゃって作者の作品を追わなくなったんですが、最近またぽつぽつ昔の作品を買ったりはしてますね。
いい時もあったし・・・って。
この一作が完結してこそ石川賢は永井豪とは似て非なる巨人であった、と証明できたはず、と私は睨んでるんですが、それももはや幻となりはてて幾星霜。
今はただ在りし日の面影を偲ぶのみ、ですね。


禍 MAGA
1999年初出

西遊記を下敷きに、孫悟空を異形の怪物に見立てた終末SF。
プロットにさほど目新しさはないんですが、石川賢の精緻な作画が描く孫悟空という名の化け物は、作者ならではの忌まわしき暴力性に満ちていたように思います。
こういう形で西遊記を換骨奪胎できるのは永井豪か石川賢ぐらいでしょうね。
惜しいな、と思ったのはせっかくの凶暴なシナリオ展開が、おなじみの「神との最終戦争」みたいなところを落とし所としていた点。
阿弥陀仏を無慈悲なる天上界の殺戮者とするアイディアそのものがやはり70年代の遺物だと思うわけです。
作者は21世紀においてさえ、いまだデビルマンへの憧憬を捨てきれずにいたのか、などとその心情に思いを馳せてしまいましたね。
悪くはないんですが、ファン以外に訴えかけるものは乏しいかも。
シナリオ協力に若桑一人を迎えているだけはあって、物語の精度は高い、と思うんですけどね。


暗殺鬼フラン衆伝 ユーラシア1274
2000年初出

蒙古帝国の大船団(文永の役)に戦いを挑む、謎の暗殺者集団を描いた仮想歴史群像劇。
元寇の裏側には実はこんな連中の暗躍があった!って、作者はやりたかったんだろうと思うんですが、うーん、やっぱりね、毎度のことながら緻密な舞台設定にそぐわぬ雑なシナリオ運びが難点かと。
石川賢の流儀は承知してるんです。
でもこの手の物語でただ粗暴なだけのキャラが勢いで敵をなぎ倒していっちゃあまずいと思うんですよね。
できることとできないことを明確にした上で暗殺者の超人性に光を当てていかないと、男一匹ガキ大将、喧嘩上等全国制覇みたいな感じになっちゃう。
つまるところ、鎌倉幕府とかフビライ・ハンとかどうでもよくなってくるんです。
どうせ力技でガンガンいくだけなんでしょ?みたいな。
歴史ものである必然性を失っちゃうんですよね。
晩年、作者は好んで歴史ものを手がけていたように思うんですが、こういう作品を読むとやっぱり石川賢はSFバイオレンスの人だなあ、と感じますね。
マニアのための一冊。
画力は微塵の衰えもなく、むしろ冴え渡ってるのが逆に悲しかったりも。


真説・魔獣戦線
2002年初出

石川賢、初期の傑作魔獣戦線の続編。
舞台は天変地異が続いて荒廃した未来の地球なんですが、1巻読了時点で早くも違和感。
というのも、前作のあの終わり方で続編、となると、慎一と神々の戦いを描くハルマゲドンをやらかすしかないはずなのにそんな気配はまるでなく、再び13使徒との小競り合いに終始なんですね。
なぜ物語をまた巻き戻すのか、と。
マリアがちゃっかり復帰してるのもどうなんだ、って感じです。
これ、ちゃんと説明できるのか、と不安に思っていたら、案の定うやむやなまま最後には矛盾を抱える羽目に。
続編と言うよりはリテイク、といった感触。
ただ最終回、前作では描かれなかった神々の正体がおぼろげながら明かされていて、そこは「ああっ、ここへつなげるのかあ!」とかつてのファン気質が沸騰。
もしこの作品が90年代に描かれていたらきっと虚無戦記シリーズに組み込まれていたことでしょう。
なんでもかんでもデビルマンに落とし所を求めた師匠の永井豪じゃないんだからそんなところまで真似しなくても、とつっこまれそうではありますが、私は石川賢がまだ虚無戦記を忘れていない、という事実に感銘を受けたりしましたね。
ひょっとして虚無戦記、再開されるんじゃないか、って。
残念ながらそれは叶えられることなく、この作品が最後の長編となったわけですが、焼き直し風であるとはいえ、70年代からはるかに進化した高い画力で精緻に描かれた魔獣とその顛末は、かつての石川ファンなら満足いくものだと思います。


*画像をクリックするとAmazonの販売ページへと飛びます。石川賢の作品はほぼ電子書籍化されていません(2025年現在)

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