1980年代の小池一夫、16作品

魔物語 愛しのベティ
1980年初出 小学館全17巻

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長男の時代
1980年初出 集英社全7巻

数ある小池一夫原作作品の中でもトンデモぶりでは独走状態で怪作、と思われるのが本作。
何が怪作か、ってそのシナリオ展開が、なんですけどね。
描かれているのは裏社会で特Aと呼ばれるスゴ腕の殺し屋。
「俺は家族を養うために殺し屋になった、長男は夢を見てはいけないのだ」などとわけのわからないことを言う人物ではあるんですが、そこはまあ、看過できなくはありません。
殺し屋にまで身を落とさなくとも他にできることはあるだろう、というつっこみを飲み込んで、ああ、極端に走る人なんだなあ、と納得出来なくはない。
問題は第1話~3巻ぐらいまでの展開。
なぜか特Aの殺し屋がオカマの復讐の手助けをするんです。
しかもこのオカマ、望んでオカマになったわけじゃない。
たちの悪いスケバンに恋路の叶わぬ腹いせとして男性器を切り落とされ、やむなくオカマとして生きることにした、という、いわば宦官のような存在。
そのオカマが一方的に殺し屋に恋をするんですね。
最終的にはつきまとうオカマに殺し屋が根負けして、ファミリーに加え、情婦のような存在となることで解決を見るんですが、いや、ちょっと待て、と。
なぜオカマと殺し屋のラブロマンスをオープニングから延々3巻にも渡って読まされねばならんのか、と。
どういう意図があったのか、想像することすらかなわぬ変化球にバットも空を切るしかないわけですが、つまるところ描かれているのは表社会で真っ当に生きられない男と男の同性愛事情としか理解できないわけです。
殺し屋がオカマに篭絡されてしまうシチュエーション萌え、とも解釈できなくはないんですが、あまりにニッチ過ぎてそれがどんな読者層にアピールするものなのか、想像することすら私にはできやしねえ。
昨今の女装ブームとか、男の娘云々とか、性のボーダレスぶりを鑑みるに、おそろしく先端をいってたのかもしれませんが、この作品がとんでもないのは、そういう内容である、と思わせずに劇画ファンをそっちの世界に引きずりこんでしまったことでしょうね。
はっきりいって山川純一どころの話ではありません。
しかもこの作品、そこまでアンチなことをやっておきながら、4巻からはそれまでの展開を全てご破算にして巨大殺し屋組織と戦う主人公のストーリーにあっさりシフトチェンジしたりするんです。
もう、わけがわかりません。
川崎のぼるの精緻な作画がカルト化をさらに促進している、と言ってもいいでしょう。
はっきり言って「いなかっぺ大将」の絵でベッドシーンはきつい。
熱心なファンでも小首を傾げざるをえない一作。
小池ファンではない人たちの間でバイブル化してそうな気もします。


乾いて候
1981年初出 双葉社全8巻

将軍家お毒味役として8代将軍吉宗に召された唇寒流の達人、腕下主丞の活躍を描いた時代劇。
小池劇画でお毒味役、とくれば、かの子連れ狼で強烈な印象を残した安部頼母がすぐに思い出されるわけですが、今作の唇役は絶世の美男子で、頭も切れ、しかも将軍の隠し子、という設定。
こんな滅茶苦茶やれるのはほんと小池一夫しかいない、と思います。
どう考えても荒唐無稽にしかならないだろうと思われるプロットなんですが、これがさして違和感を感じることなく真に迫っておもしろいんだから本当にたいしたもの。
吉宗の実子でありながら命を賭して父の政敵を葬り去る役目を担う、という筋立てがまずは巧みだ、と私は思いましたね。
跡継ぎとして次の将軍と目されるはずが何故か毒見役、という不条理さに立場を超えた親子のドラマがあるんですよね。
悲愴になりすぎず、吉宗を愛嬌のあるダメな父親風に描いたのも新鮮だった。
権謀術策渦巻く政治の世界で知恵を絞り、なんとか吉宗の治世を安泰なものにしようと暗闘する主丞の姿には、深い父と子の絆を柱とした情の物語がある。
このまま吉宗の行く末を描いていたら凄い作品になったのでは、と思われるのですが、なぜかストーリーは中盤から主丞とその妻の諸国行脚漫遊記に。
主丞の「乾き」を癒すにはどうすべきか、と考えた末の方向転換なのかもしれませんが、若干ブレてしまったような印象は否めません。
終盤にいたってはほとんど主丞捕物帳か、ってな按配。
うーん、どうしたかったんでしょうか。
序盤のスタイルでは作劇が続かなかった、という事なのかもしれません。
3巻ぐらいまでは滅茶苦茶おもしろいんですが、徐々にクールダウンしてしまったという残念な作品。
ああ、惜しい、の一言でしょうか。
代表作のひとつにもなりえた完成度を誇りながらしぼんでしまったのは歯がゆいとしかいいようがないですね。


忘れ苦兵衛
1982年初出 スタジオシップ全6巻

死んだ妻の霊が取り憑いたまま離れない京都六角牢屋敷の雑色、苦兵衛が遭遇する事件の数々を描いたオカルト時代劇。
「幽霊と牢役人」という取り合わせを「時代劇でやる」という発想は面白いと思います。
妻の霊が祟るものではなく、うしろの百太郎のように夫を幽界から助ける存在として描かれているのも良く出来てる。
今で言うところの心霊探偵事件簿みたいな体裁なんですよね。
この世あらざる力をもってして、解き明かせぬ謎を暴き、事件の解決を図る、みたいな。
普通はこんなことやると間違いなく胡散臭くなって、ネオ時代劇だとかSF時代劇だとか言われた挙げ句、設定そのものが足かせとなってグダグダになってしまいそうにも思えますが、そこは小池一夫、時代劇におけるリアリズムの構築に隙はなく、読者を冷めさせません。
物語の土台が堅牢なんで、多少の荒唐無稽も許容できちゃうんですね。
江戸に生きる人達にとって怪異とはどういう現象であったのか、モダンになりすぎてないのもいい。
当時の幽霊譚であり、怪現象なんです。
そこに余計な背伸びはない。
ただね、オカルトそのものをどうロジックで解き明かしていくのか?という点において、いささか小理屈をこね回し過ぎなのが玉に瑕でして。
シンプルに、妻の幽霊が助け舟を出す、ぐらいで良かったと思うんですよ。
法力の強い和尚やら仏教やら九字護身法やら、あれこれ途中で持ち出してくるんで、どんどん縛りやルールが増えて、中盤以降、妻の幽霊自体が神秘性を失い、あんまり使えない面倒な異物、みたいな感じになってきちゃうんです。
これはカタルシスを得にくい。
オカルトを肯定してるのに、自分の手で「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とばかり、全部白日のもとにさらそうとするんですよね。
もうこれは資質なんでしょうね、多分。
ホラーやSFに必要な「想像の余地」を設けることが出来ないんだと思う、この人は。
手の込んだ作劇ですし、プロットも独特だと思うんですが、悲しいかな、それが読み応えにつながらなかった一作。
どちらかというとファン向けですかね。


傷追い人
1982年初出 小学館全11巻

有名人のポルノフィルムを秘密裏に流通させることで巨額の利益を得る秘密組織GPXに恋人を奪われた主人公、白髪鬼バラキの壮大な復讐を描いた物語。
裏テーマになっているのは、どう愛を貫くのか、みたいな哲学なんですが、なんと言いますかどうにもマッチョイズム薫るなあ、と。
そもそもこの作品におけるセックスって、結構微妙なポジションにあると私は思うんです。
強制されたセックスフィルムを拒否することでバラキは恋人を失ってるわけですから。
それって貞操観念なわけですよね。
ところがその肝心のバラキ本人が、セックスを武器に強引に女を口説き落とすような行為を作中では何度も繰り返してるんですね。
意地悪な言い方をするなら女性の人格そのものがひどく安い扱いなんです。
手前勝手な復讐につき合わせていくたびも犠牲を出しながら、それを永遠の愛などと言われてもですね、私なんかは過去に残された累々たる屍の数に、どうにも共感できない感情の方が先にたつ。
徒手空拳の男が巨大組織に挑む姿にカタルシスはあるんですが、もしこの愛と呼ばれるもののセックス描写がある種の読者サービスなのだったとしたら、これは過剰だし、言ってることとやってることがちぐはぐだろうと。
OVA化もされた人気作ですが、私はあんまり好きになれません。
やはり小池一夫は時代劇、なんて当時は思ったものです。


デュエット
1984年初出 集英社全9巻

財閥の後継者である娘を守るために育てられた非合法活動のエキスパート鉄樹の、愛と戦いの日々を描いたクライムアクション。
バッサリやってしまうなら、後のヒット作クライングフリーマンとほぼ内容はかぶってます。
年代的に考えるならこちらが雛形だった、ということかも。
クライングフリーマンはクライングフリーマンで決して傑作とは言いがたい、と私は考えてますんで、その雛形ともなればもはや言わずもがな。
まず決定的に失敗してる、と私が思うのは根津財閥に関わる暗闘を描いた前半と、主人公が暗殺組織の長として活躍する後半が全く別物になってるように感じられることでしょうね。
そもそもこの展開なら序盤の根津財閥の話は全然必要ない。
むしろ鉄樹とヒロイン雪妃の後の道行きが前半の筋立て以上に危険をはらんでて意味不明、という矛盾すら併せ持つ。
やりたかったことはわかるんです。
死と隣り合わせの非現実的な日常における超絶な愛の形を描きたかったんでしょう、きっと。
でも、物語の出発点がそもそもおかしいから、それがどうしても伝わってこない。
なぜこんなことをやってるのか?この人たちは?としか映らない。
当時の読者もそれをうすうす感じていたのか、人気も伸び悩んだようで、結果途中で投げ出すように終了。 
失敗作でしょうね。
井上、小池の2人のコンビによる大当たりはやはりマッドブル34だけか、とあらためて認識した次第。
熱烈なファン向けですね。


キンゾーの上がってなンボ!!
1984年初出 スタジオシップ全8巻

ベストアマの腕前を持つアマチュアゴルファー、前野金蔵がプロを目指すためにすべてを捨ててゴルフに打ち込む姿を描くスポーツ漫画。
雑な言い方をするなら「スポ根」かと思うんですが、今振り返るならこのコンビで「スポ根」描いてた、ってのもすごいなあ、と思ったり。
だって実験人形ダミー・オスカー(1977~)やオークション・ハウス(1990~)のコンビですよ?
暴力とエロスの二丁拳銃で裏社会に暗躍する超人の活躍譚、が手慣れたやり口かと思うんですが、ゴルフ漫画じゃそうはいかない。
あんまり怪しい連中を登場させすぎてしまうとプロゴルファー猿(1974~)かよ!って言われちゃいますから。
劇画の大家が二人も揃って「猿」では目も当てられんわけですから。
ま、1巻から闇の賭けゴルファーが登場してきたりと、色々怪しかったりはするんですけど、想像してた以上にケレン味なしのハッタリ少なめなのが以外といえば以外でしたね。
実に真面目にゴルフというのはどういうスポーツなのか?どうすれば技術は向上するのか?を紐解いていたりする。
多分、小池一夫本人がゴルフ好きなんでしょうね。
私は全くゴルフをやらないんで、この漫画で語られてることがはたして正しいのか、そして現在においても通用することなのかどうかすらわからんのですが、物語そっちのけで熱くゴルフ論を披瀝していることは確か。
それが従来の小池劇画ファンを遠ざけてる部分は少なからずあるかもしれない。
ストーリーそのものは主人公が様々な困難や障害にぶつかりながらも成長していく様子を描く真っ当なものなんですが、主人公の性格がひたむきで屈折していない点が幾分一本調子に感じられるかも。
前野金蔵の屈託の無さ、明るさが周りの人達の凝り固まった心を溶かしていくんですね。
いつしか敵すらも彼のことを好きになっていた、みたいな。
路線としては弐十手物語(1978~)の鶴次郎や、魔物語(1980~)の肝川のキャラと近い方向性かもしれません。
内容的に、もうちょっと続いてもおかしくはないのに・・と思わなくもないんですが、何故かシリーズは打ち切り宣告でもされたかのように慌てて8巻で終了。
その後、続編である「新上がってなンボ!!太一よ泣くな」(1987~)がゴルフ専門誌アルバトロス・ビュー誌上において、13年の長きに渡って連載されたんで、単にこの漫画を面白い!と思える層に届いてなかっただけなのかもしれませんね。
専門性が高い、と感じる部分もあるし、私はもともとスポーツ漫画があんまり好きじゃないんで、続編を読むつもりはないんですけど、むしろ従来の小池ファン以外にアピールする漫画かもな、と思ったりはします。
ゴルフマンガの金字塔(続編が)と呼ばれたりしてるみたいですし。
いや、ちょっと待て、あした天気になあれ(1981~)の立場はどうなる、と思ったりしなくはないですが。
そういえばあした天気になあれも10巻ぐらいで頓挫したな。
まあ、好みは如何ともし難い、といったところですかね。
戦いの場においては常に超人を主人公にしてきた小池一夫が、続編では非力で才能に恵まれぬ男を主人公にした点が興味深くはあるんですけどね(太一は本編においてすでに登場してます)、そのことに関しては他の識者な方々に論じていただくとして。
興味を持てないのに続編36巻は読めないですよ、いやマジで。


拳神
1984年初出 集英社全19巻

日本ボクシング界の父といわれた渡辺勇次郎氏をモデルとした作品。
クジラ漁の網元の息子に生まれた勇次郎が、修行のため、と促されて何故かアラスカのエスキモーの元に預けられる展開から物語は幕を開きます。
見知らぬ土地で右往左往しながら徐々にボクシングにのめりこんでいく勇次郎の姿を描いた青春群像、といった内容ですが、さてこれがどこまで史実に忠実なのかは不明。
なんせ小池一夫ですんで、相当な脚色や演出はあることだろう、と思われますが、 明治の終わりから大正にかけての時代に息吹いていたボクシングの世界に生きる海外在住の日本人を描写する、という独特の舞台設定は実に読み応えがある、といっていいでしょう。
掲載誌がプレイボーイだったこともあってか、エッチなシーンも盛りだくさんで、いかにも小池劇画、とニヤリ。
松森正の画力が非常に高いことも魅力のひとつでしょう。
差別や陰謀に巻き込まれながら、くじけずに目の前の敵を撃破していく勇次郎の活躍は、中盤ぐらいまで胸踊るものがありますが、残念なのは帰国してからのシナリオ運びでしょうね。
日本初のボクシングジムを開く、という理想に向かってひたすら突き進んでくれたらよかったんですが、棒術の使い手と異種格闘技戦に挑んだ後ぐらいから急にストーリーがブレだします。
エンディングは、当時の事情を知らなくとも、不人気で打ち切りを示唆され無理矢理物語をまとめたんだろうなあ、と思われる、どこか尻すぼみな印象、濃厚。
途中までは、これは日本のボクシング漫画の歴史に残る作品では!?なぜ話題にならないのか?と疑問だったんですが、最後まで読んで納得、といった感じです。
切り口の珍しいボクシング漫画だったけに残念、の一言。
どこかでテンションを維持できなくなった、という事なのだと思いますが、かといって、忘れてしまうには惜しいなにかがあることも確かです。
評価されるべきはやはり凡庸に史実をなぞっただけの偉人伝になってない部分でしょうが、では今あらためて読むだけの価値はあるか、というと難しいところでしょうね。


明日カップ・イン
1985年初出 小学館全12巻

目的もなく自堕落に日々を過ごしていた不良少女が、女子プロの世界で生き抜こう決心し、果敢に挑戦する姿を描いた成長物語。
しかしまあ、思ってた以上に小池一夫はゴルフ漫画を描いてたんだなあ、と。
上がってナンボ!シリーズだけかと思ってたら、少し掘っただけで出てくるわ出てくるわ。
私はほぼゴルフに興味がないんで、小池一夫でなければ多分読んでなかっただろうな、とは思うんですけど、たとえ小池一夫でも食指のそそられないジャンル漫画はやっぱりあんまり楽しめないな、と今回つくづく思った次第。
最近、小池ゴルフ漫画ばっかり続けて読んでるからなあ。
まとめ買いしたのが失敗だった。
電子書籍がどうなってるのかはわからないんですけど、紙の本に関しては、小池原作のゴルフ漫画って全部安いんですよね。
このシリーズなんて12冊で500円でしたし。
そりゃあんまり興味なくても買うだろ、って。
子連れ狼とか、あの辺りは相変わらず高いんですけどね、なんだろ、ニーズがないのかな?ゴルフファンの。
現在のプロゴルファーの世界は、80年代当時とは大きく変わってるのかもしれませんね。
全く知らないんで、勝手な当て推量ですけど。
で、肝心の内容なんですが、大きくはスポーツ漫画の枠組みにありながら、一風変わってるのは、そこに小池一夫お得意の「揺るがぬ純愛」を持ち込んだ点にあるといっていいでしょう。
主人公ヒロがゴルフを志すきっかけとなった人物がいるんですけどね(ゴルフの師でもある)、この人が序盤で早々と病死しちゃうんですよ。
ヒロは師の思い出を胸に、くじけそうになる心を奮い立たせながらゴルフに邁進していく、という筋立て。
なんかどこかで似たような作劇にお目にかかったような・・・と思ったあなた、大正解です。
小池一夫が現代劇で延々やってた「自分のために死んだ女の想いを胸に、目的を遂げるべく突き進むマッチョな主人公の道行きをドラマチックに描く」という作者定番の構図を男女逆転させただけの話でして。
ゴルフというスポーツとの取り合わせや、主人公が女性であることがこれまでとは違う質感を有してはいますが、やってることはおなじみ金太郎飴。
物語の展開にある程度の予測がついてしまう。
小池一夫のヘヴィリーダーならなおさら(私のことだ)。
また、よろしくないのが師とヒロの間に通う感情が、死を前提として愛にすり替わっているような節がありまして。
敬愛の情だったはずなのに、それがいつの間に熱烈な相思相愛へ?って感じなんですよね。
小池一夫にしてはちょっと演出が雑だったかな、と思わなくもありません。
けなげでひたむきな主人公の生き様に読み応えがないわけではないんですけどね、私の場合、二人の離別までの流れでつまずいてしまったものだから、どうしてものれない部分があって。
終盤の「女子プロのチームを作る」というストーリー進行で若干盛り返しはするんですが、何故かその後、突然すべてをご破算にしてまたヒロが一人に戻る筋運びにしたのも失敗だった、と思います。
小池劇画じゃよくある話ですが、風呂敷を広げまくった挙げ句、突然集中力が失せたようにテンションダウンする悪い癖がこの作品でも顕著。
エンディングなんてそれなりにまとめただけ、と言われても否定できない、と思いますね。
木村えいじのシャープな線が今見ても古びてなくてスタイリッシュな作画だなあ、と感心したりもするんですけど、残念ながら凡庸かと。
ショートカットの似合うヒロのキャラクター像はニューウェーブにも通底する可愛さかと思うんですが、ゴルフ門外漢な私にとってそれ以上の何かは見出しにくい一作。


クライングフリーマン
1986年初出 小学館全9巻

自らの手で人を殺めたあと、感情とは別にどうしても涙があふれてしまう熟練の暗殺者フリーマン、という主人公のキャラは出色の出来だった、と思います。
殺しを生業とする男の悲哀をたったの一コマでこれほど如実に表現した作品はなかった、といっていいでしょうね。
そんなフリーマンがどうしても殺すことの出来ない女と出会い、愛を貫こうとする展開も期待させるものがあった。
殺し屋が妻を娶るために組織に女を同行する、なんて展開はちょっと普通じゃあ考えられないシナリオだと思うんです。
問題はそこから先。
なぜかフリーマンが組織のボスにおさまって、敵対する組織と次々暗闘を繰り広げるという、男一匹ガキ大将、ケンカ上等全国制覇みたいなストーリーになっちゃうんですよね。
もちろん小池劇画ですんで、そこに濃厚な人間ドラマや非合法組織における夫婦の生き様を問う深いテーマがあったりはするんですが、それ以前の問題としてですね、ほとんど騙されたような感じで暗殺者に仕立て上げられたフリーマンはなぜ秘密結社百八竜の長として生きていくことを良しとしているのか、どうして自分を騙した連中を家族などと呼んで結束を貫いているのか、そこがさっぱりわからないわけです。
流れに任せて読んでいると見過ごしそうになりますが、そもそも百八竜は麻薬を日本に持ち込もうとしたマフィアなんですね。
麻薬で生計を立てているような連中にですね、愛だの家族だの絆だの語られたくねえわ!と。
ヤクザ映画的なカタルシスがあるのは認めますが、あまりにフリーマンをヒーロー視して描きすぎ、と私は思いました。
後ろめたさ皆無なんです。
それともこれは、人はその環境に染まり、立場によって変わる、という痛烈なアイロニーだったりするんでしょうか。
わかりません。
うーん、私にはちょっとついていけないですね。
初期設定を小池一夫は忘れてるんじゃなかろうか、とすら思う。
ただ、池上遼一の作画は絶頂期、と言っていいほど冴えまくってます。
カミソリ竜二や白牙扇は強烈なインパクト。
こんなキャラ、池上画伯にしか描けません。


男弐
1986年初出 集英社全10巻

著名な歴史上の人物に焦点を当て、その半生を追った大河時代劇。
シリーズに登場するのは、山本勘助、服部半蔵、土方歳三。
ぶっちゃけあんまり小池一夫らしくないなあ、と。
過去に実在した人物を描いたドラマはそれこそ漫画に限らず、小説、映画も含め、膨大な数がありますしね。
あえて漫画化してもらわなくともですね、普通に知ってるわけですよ、山本勘助や土方歳三がなにをしたか?とか。
それでもあえてやってみたい、というのであれば、これまでと違った切り口が必要だと思うし、史実を逸脱した奇想も加味するぐらいじゃないといけないと思うんです。
そういうのって、小池一夫の得意とするところだと思うんですけどね、なぜかね、今回に限ってはあんまり無茶をしてくれない。
もちろん改変はあるんでしょう。
でも、それが読者を唸らせるほどの面白味を伴ってない。
豪傑列伝みたいにしたかったのかもしれませんけどね、そういうのは小池一夫の仕事じゃないだろう、と。
ありえなさを力ずくの説得力でリアリズムに昇華するのが氏ではなかったのか?と。
というか服部半蔵に限っては、小島剛夕とのコンビで過去にやってるじゃないですか(半蔵の門)、って。
なぜわざわざ劣化した短縮版を再ドラマ化する?
うーん、編集部の要請でもあったんですかね、意図が読めません。
叶精作の影響下にあると思われる伊賀和洋の作画は悪くなく、特に沖田総司のキャラデザインなんか凄い絵を描くな、と感心したんですが、肝心の原作がままならない感じですね。
小池一夫の看板にこだわらなければ楽しめるかもしれませんが。


クロマティ・ハラショー
1987年初出 スタジオシップ全4巻

河原のゴルフ地蔵に手を合わせた者に、無償でゴルフ指導をしてくれる謎の博士とロボットを描いたうんちく漫画。
ほとんど学習漫画、と言ってもいいかもしれませんね。
ほぼ物語不在な上、各話で語られるのは9割がゴルフ上達のための含蓄、効果的な練習方法についてですし。
博士とロボットはどうやらソビエトの連中っぽいんですけど、なぜソビエト人が河原の地下に秘密の近代的な練習場を所有していて、アマチュアゴルファーを助けるのか、何もかも謎なまま章ごとに主人公を変えてストーリーは進行。
多分、設定とかどうでも良かったんだと思います。
まずゴルフ技術論?ありきで、そのために都合の良いプロットを適当にひねりだした、ってところでしょう。
印象的なデザインの骸骨風ロボットが主人公を手助けしていくんですけど、見目とかその性能、性格ににぎやかし以上の意味はありません。
無遠慮なレッスンプロさながらにあれこれ口うるさく指導していくだけ。
読みやすく、わかりやすい漫画版のゴルフ指南書を描いてくれ、との依頼があったのかもしれませんね。
しかし小池一夫クラスの劇画の大家にこんなことやられちゃあ、この手の学習漫画で食ってる漫画家からしたらたまったもんじゃないでしょうね。
あんた、こんなことやらなくても一線で活躍できてるでしょうが!みたいな。
ま、この作品がのちの「新上がってなンボ!!太一よ泣くな」(1987~)につながっていったのかもしれないですけど。
どちらにせよ私はゴルフに興味もなければ、学習漫画になにか期待するものがあるわけでもないんで、なんの興味も持てないというのが本音。
小池一夫の膨大な著作リストにおいては異色作、と言えるかもしれませんが。
ちなみにクロマティとはロボットの名前のこと。
野球選手のクロマティとは無関係だと思うんですけど、うーん、わからんな、正直なところ。


新上がってなンボ!太一よ泣くな
1987年初出 スタジオシップ全36巻

キンゾーの上がってナンボ!(1984~)におけるサブキャラだった川端太一を主人公にした続編ゴルフ漫画。
こりゃ実際にゴルフやってなきゃ絶対わかんないだろうな、と思われるうんちくや雑学、考察は前作以上に豊富で、なおかつ多面的に掘り下げられてて、ほんと感心しましたね。
私はゴルフ門外漢なんで、ほう、そういうものなのか、といった感慨しかうけないですけど、普通のゴルフ漫画がここまでゴルフというスポーツを、ロジックとサイコロジーの両面から分析してる、ってことはまずないと思います。
もうほとんど指南書の域。
それでいて小池一夫がすごかったのは、登場人物たちのドラマを一切ないがしろにしなかったこと。
私がこりゃ新機軸だな、と思ったのは、これまで肉体的、精神的に常人を凌駕した超人ばかりを主人公にしてきた氏が、今回珍しくコンプレックスだらけの普通の人を主人公にしてること。
主人公太一は、体も大きくないし、非力なんで、プロになるのは無理だ、と言われてるんですね。
本人もそれを自覚してるんですけど、どうしてもプロの夢を捨てきれないんです。
小さく刻んでいくゴルフでパットの正確さだけを武器に、なんとか才能に恵まれた連中と戦っていこうとする。
できないことはできないと認めた上で、凡人なりに涙ぐましい努力を重ねていくんですよ。
これが共感を呼ばないわけがなくて。
もう、わかりすぎるほどわかってしまうわけですよ、太一の気持ちが。
特に私のようななんの才能もない凡人はなおさら。
ゴルフのことはわからないけれど、太一の真摯で愚直な挑戦の日々を見てるだけで思わず涙腺が緩んでくる。
奥さんである八重との深い絆が主人公の支えになってる作劇もいい。
八重はいわゆる大女で、太一とは蚤の夫婦と言われてたりするんですけど、おそらくね、八重は八重なりに自分の容姿に思うところがあるはずなんです。
それをおくびにも出さずにひたすら太一の成功だけを願って、夫をサポートする献身的な姿には幾度も胸打たれましたね。
なんて深い愛情でこの二人は結ばれてるんだろう、と感動することしきり。
いやこれ、ほんとゴルフ漫画か、と疑いたくなるほどドラマチックで。
また、羅綾やブレーキボールといった、ジャンプバトル漫画風の必殺技的アプローチをさりげなく忍ばせてるのもいい。
本当にある技術なんでしょうけど、ただプレイしてる様子だけではどうしても地味にならざるをえないゴルフというスポーツに動的なダイナミックさ、素人でも興味をそそられるとっかかりを上手に設けてる、と思いましたね。
全36巻というあまりの長さに手を出すのをためらってましたが、このシリーズはゴルフに興味がない人が読んでも十分楽しめると思います。
小池、叶コンビの最高傑作、ゴルフ漫画の金字塔じゃないでしょうか。
ちなみに物語は太一がプロテストを終える日で最終回を迎えてるので、きっちり完結した風ではないんですが、続きは新々上がってナンボ!で描かれてます。


涙弾
1988年初出 集英社全21巻

パリの並行警察出身の日本人、切葉弾の活躍を描いた刑事もの。
本作に限っては、小池一夫らしからぬ感じで主人公のキャラがあんまり濃くない、というか立ってない感じです。
というのも切葉弾、元々は普通の留学生なんですよね。
偶然パリで殺し屋の女と知り合ったことから並行警察入りしてますが、その警察ですらあとから「ど素人のお前をやとったのは囮になると思ったからだ」と言われる始末。
それが日本に赴任してきた途端、突然スーパーポリスになってる。
頭は切れるわ、推理力、観察力は尋常じゃないわ、体術に優れてるわで、いったいただの留学生が短期間のうちになにをやったんだ?って話で。
主人公が成長していく過程のエピソードが一切省かれてるものだから、切葉弾の人物像に全く説得力がないんです。
なんだかわからんが化けたのね、と思うしかない。
そういう状態で読み進めていってるものだから、事件関係者が哀しみのうちに命を散らしていこうが、切葉がそれを見て涙に暮れていようがあんまり共感できないわけで。
どこかね、事件を回していくための駒っぽいんですよね。
最終的に主人公はCIAの秘密捜査員にまで流れていくんですけど、キャラよりも事件に重きを置く傾向は変わらずで。
ひとつの事件を解決するのに5巻を消費するとかザラですから。
複雑に入り組んだ事件をじっくり解いていく醍醐味は確かにあるんですが、あんまりらしくない、といえばらしくない。
小池一夫の黄金パターン、女が主人公のために身を挺してバンバン死んでいく(何人かは死ぬんですけどね)からの脱却を図ろうとしていたのかもしれません。
ま、読者としちゃあハッタリとマッチョイズムで物語に強引な説得力をもたせる作家性を期待してる面もあるんで、若干拍子抜けな感触はありますね。
どっちかといえば薄味かもしれません。
小池一夫を期待しなければそれなりの読み応えはあると思うんですが、それが作者の意図するところと合致しているかどうかは不明。
熱心なファン向けではないかもしれません。
かといって新生面をアピールしているとも言い難いのがどうにもはがゆいところ。
ちなみに最終話も終わってるのか、終わってないのかよくわからない感じです。
ひとつの事件解決をもって完、となってますんで切葉がその後どうなったのか?とか、まるでわかりません。
人気が低迷してきての打ち切りだったのかもしれません。


赤い鳩
1988年初出 小学館全6巻

江戸末期を舞台に、新撰組の沖田総司なんかも絡んでユダヤ人と日本人の同祖説をたぐる旅を描いた伝奇ミステリ。
動乱の時代に150年後のハルマゲドンを憂いて行動する馬庭念流の達人たる若き武士と異国の宣教師のコンビ、というプロットだけでもとんでもない発想だと思うんですが、そこに半村良ばりの謎解きを散りばめていく、というのが二重に仰天でしたね。
すげえこじつけ、と思える部分もないわけじゃないんです。
でもここまで自信たっぷりに、膨大な資料をひも解いたであろう私的考察を披露されると、ケレン味強すぎと思いながらもどこかひきこまれていく、というのはありましたね。
こういう作品、私は大好きなんですが、残念だったのは物語の舵取りがいささか定まらなかったこと。
伝奇アクションを貫くべきだった、と私は思うんですが、それらしいクライマックスを迎えはするものの、いまいち盛り上がらないんです。
その要因を指摘することは簡単で、強大な敵が存在しなかった、その一言に尽きます。
やはり北の民を敵役にするならするで、その組織やボスの存在まで描ききるべきだった、と思うんですね。
その場その場で雑魚がちょっかい出すだけで終わりなんで、苦難の旅もただ無計画なだけとしか映らない。
諸星大二郎風に想像の果てを描写したかったのかもしれませんが、そこはあえて控え目にして「闘いと情」に焦点を絞るべきだった、と思います。
それこそが小池氏の真骨頂だと思いますし。
二兎を追い、いささかストーリーがブレた印象。
宣教師ヘボンがどう見ても男装した女なのにそのことについて最後まで触れられなかったのもよくわからない。
別式女トヨという池上遼一らしいキャラが出色だったんで、惜しい、と思うんですがあと少し届かず、といった感触。
大風呂敷の広げ方が最高に楽しかっただけに、なにかともったいないと感じた一作でしたね。


オファード
1989年初出 小学館全4巻

伝奇ロマン風な冒険譚にしたかったのかなあ、なんて思ったりもしたんですが、まあ結論からいいますと主人公のキャラが定まらず、その出生の謎も結局どうなのかよくわからず、すべてにおいてブレた、その一言に尽きます。
結局等身大な普通の男性を主役に据えることが小池一夫はできないのかも、なんて思ったりも。
肉体派で最強で、頭も良くて、度胸もすわってて、身も心も捧げる女が2、3人居る、という全男性諸氏の理想でありシンボルみたいなキャラを主人公に据えるパターンが、時代から徐々にズレはじめていたがゆえの迷走、と考えることもできるかも。
どこか迷いがある風なんですね。
ギルガメッシュやヒトラーまで持ち出して広げまくった大風呂敷は壮大でおもしろかったんですが、そこにお得意のヒーローとそのライバル達が立脚できなかったように私は感じました。
ただ、近眼でおちゃめなヒロイン、レイのキャラは小池劇画においては斬新だったように思います。
エロくて激情的な女性ばっかり登場してましたしね、これまでは。
ラブコメを意識したりしたんでしょうかね?
エンディングもなんとなく打ち切りを示唆されてあわてて畳んだような感じ。
アガルタの謎に迫る展開とかよく出来てるんですけどね、小池劇画の流儀にどうにも上手に染まらなかった感じですね。
ある意味異色作でもあると思うんで、ファンにとっては興味深い一作かもしれません。
エロさを完全に排除して少年漫画的にやったらうまくいったのでは、という気もしますね。


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