ナスカ
1980年初出

これがまたもう、一体なにをどうしたかったのかのレベルでグダグダな内容でして。
例の眼鏡で短足の四畳半なあいつが主人公の、ナスカを舞台としたSFなんですが、地球外生命体について描きたかったのか、有尾人について描きたかったのか、よくわからないままテーマそのものがあちらへこちらへと脱線しまくり。
相変わらず思わせぶりな謎や伏線はアクロバティックな展開と共にちりばめられてるんですが、なにも明かされないし、収束することもなし。
意外性を狙ってその場その場の思いつきだけで構築した散文詩みたいな作品。
いやこれはさすがにダメだと思う次第。
昆虫皇帝(1978)と似た感じで物語の体をなしてない、というのは言いすぎですかね。
もうちょっと集中して描いて、と進言したくなる一冊。
ザ・ステテコンドル
1980年初出

以前作者の四畳半ものは恐竜荘物語(1976)で最後、みたいなことを書きましたが、まだあったよ、本当にしぶとい、誰が読んでるんだ、ってレベルでまだあったよ。
えー今回の主人公はかつての四畳半ものでよく登場したキャラ(おでん屋のおやじだったり、セックスカウンセラーだったりしたアレ)なんですが、もうなんといいますか、中年のオヤジの貧乏1人暮らしなんて、あまりに痛々しい上に夢も希望もなくてですね。
なんていうか、読んでいてひたすら辛いです。
孤独死、という単語しか浮かんでこないんです。
そんな悲惨な内容でもないんですが、かといってこの先なにかかがあるとも思えぬその日暮らししか描かれてなくて。
必殺のマンネリズムも若者が主人公であってこそだったんだ、と痛感したり。
いったい何を描きたかったのか、本当に謎です。
ある意味怪作かもしれません。
主人公のオヤジと近い年齢になりつつある私としては、貧困をテーマとした社会問題を提起してるのか?と思えてくるほど。
何が面白いのかさっぱりわからなかった一作。
どう読み解けばいいのか、私には解析不能。
新竹取物語 1000年女王
1980年初出

999に次いでテレビアニメ化されたヒット作ですが、個人的には失敗作とは言えないまでもそれほど優れた作品でもないのでは、ってのが正直なところ。
彗星が地球をかすめる事によって地球に危機が、ってところまでは良いんですが、そこに竹取物語を絡めるのはやはり無理筋なのでは、と思う次第。
代々地球を影から治める1000年女王の存在もあまりに絵空事ですし、1000年盗賊の存在も含め、ストーリーが進むにつれて辻褄の合わないことやいきあたりばったりがどんどん増えていくのも大きなマイナス点。
そもそもプロット自体があまり練られているとは思えない、というのは言い過ぎでしょうか。
劇場アニメ版で見た東京が地面ごと浮かび上がるシーンが記憶に残っていたりはしますが、どちらかといえば低調な一作。
松本アニメにみんなが狂騒的になっていた時代の、供給不足を補うために祭り上げられてしまった作品、という印象ですかね。
蜃気楼フェリー アイランダー0
1982初出

あまり話題にならなかったんですが、こりゃ隠れた秀作では、と思う次第。
どうも打ちきりっぽいエンディングなんですが、皮肉にもそれ故逆にコンパクトまとまったような印象もあり。
長く連載を続けると枝葉末節を広げすぎて収拾がつかなくなるのが作者の悪いクセな気もしますんで、これぐらいが実はちょうど良いのかもしれません。
「地球へ」にも通ずる帰郷と再生の物語かと思うんですが、お得意の反骨と反権威にストーリーが支えられた後、ほのかにラブロマンス風に着地、というのがこれまでの作品にはなかった新機軸ではないか?と。
ルナクイーンみたいなキャラは過去の作品には登場してないと思うんです。
それが80年代を意識した結果なのかどうかはわからないですけど。
メーテルやエメラルダスみたいなヒロイン以外も創造できたのか!とちょっと驚かされましたね。
斬新と言うほどではないんですが、999以降の新たな松本SFの試行錯誤がかいま見れて興味深い内容です。
いや、私は好きですね、この作品。
漂流幹線000
1983年初出

999をもう一度、と言う編集部の意向が如実に伝わってくるタイトルですが、柳の下にやはり2匹のドジョウはいなかったことが証明される結果になってしまった不運な一作。
当時、世間の評価は芳しいものではなかったんですが、なぜこれがダメなんだ、と実は私、1人憤っておりました。
いや、ほんと完成度高いんですよ、この作品。
少なくとも松本SFにありがちな矛盾や破綻、辻褄のあわなさや伏線の放置は本作では見受けられず。
これ、凄い大事なのでは、と思うわけです、かつて幾度となく裏切られたファンとしては。
まあSFと言うよりは完全にファンタジーではあるんですが、過去作にはなかった新しい試みなども散見でき、思いのほか目新しい印象を受けることは確か。
まずですね、間違いなく平田先生みたいなキャラはこれまでの作者の作品には存在しなかった、と私は思うんです。
蜃気楼フェリーアイランダー0(1982)のページでも書きましたけどね、さらにヒロインの差別化を推し進めてきた印象。
メーテルや大四畳半のジュンみたいに母性と寛容さがすべてじゃないんですよね。
また、主人公が無力であることを認めたのも本作が初めてではないか、と思うんですね。
鉄郎でも物野始でも海野広でも何でも良いんですが、これまでの作者の長編SF作品における胴長短足の主人公達は無力で無芸でありながら、なぜか庇護の対象であり、意味なくその存在をもてはやされる傾向にありました。
しいて言うなら鋼鉄の意志、というはなはだ具体性に乏しい不確定な精神性を根拠に、主人公として立脚していたわけです。
しかし本作では窮地に陥ってすら祈ることしかできない主人公の無力さを全肯定しており、またそれが唯一の武器である、と説く。
これは松本作品における主人公の変遷を語る上でちょっとした変革だと思います。
コンプレックスに打ちのめされた若かりし頃の怨念を照射するように頑として鉄郎タイプの主人公しか描かなかった作者が、やっとその妄執から解き放たれたのか、と私は邪推したりしましたね。
松本アニメブームも終息にむかいつつある中ひっそりと連載された本作ですが、狂乱の時代を過ぎて、その名残を惜しむようなタイトルとは裏腹に新たな手法を再構築した一作であったように思います。
一読の価値あり。
個人的には1000年女王よりずっとおもしろいと思います。
V2パンツァー
1987年初出

漂流幹線000(1983)の平田先生みたいなキャラを主人公にして、砂漠を縦断する女バイク乗りを描いた未来SF。
アイディアそのものはごく初期の作者のSF系の作品を発展、アレンジしたような感じなんですが、女性が主人公の松本SFはエメラルダスを除けば他に思いあたらないので非常に物珍しく感じるのは確か。
実は秘かに人気あったのか、平田先生。
故に舞台を変えて再登板?
いや、知りませんが。
はっきりいってオチは他愛ないし、どうも打ちきりになったっぽい終わり方なんですが、もう完全にパターン化、定番化したと思える作者の創作にまだこういうバリエーションがあったのか、と思うと、妙にワクワクするものを感じたりはしました。
ひょっとしてまだまだ松本零士は底を見せてないんじゃないか?と。
格別傑作というわけではないんですが、なんだか好きな一作ですね。
砂漠をバイクで行く女ライダー、という絵が普通にかっこいい。
999以降の方が私の好みな作品を多く描いてるなあ、とこれを書きながら今思ったりしてます。
無の黒船
1989年初出

東大名誉教授竹内均氏を監修に将来の日本のエネルギー問題について、原発をテーマに漫画形式で自説を展開した異色の一作。
創作風ですが、純粋な創作ではありません。
どちらかといえば小林よしのりのゴー宣に近い形式。
作者本人は出てきませんけどね。
作品設定上の舞台は1999年なんですが、もちろんとっくに99年は過ぎ去っており、それ故、現実との齟齬、ズレがどうしたって生じてきているわけですが、それ以前の問題として、福島の事故を経験した今の日本において、なかなか素直にうなずけないものがいくつかあることは確かです。
感情論ではなく、暴かれた東電の欺瞞がごっそり抜け落ちている、と言う意味で、ですが。
全肯定も全否定もしていない、という微妙なポジションの結論は、やはり当たり障りなく前世紀の戯言、と揶揄されてもしかたないかもしれません。
とりあえず従来の松本作品とは一線を画します。
あえて読む必要もないのでは、と思ったりもします。
なぜ松本零士がこれを描かなきゃならんのか、ちょっと意図が読めない、というのはありますね。
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