ハート・ロッカー

アメリカ 2008
監督 キャスリン・ビグロー
脚本 マーク・ボール
ハート・ロッカー

イラク戦争終結後のバグダットで、爆弾処理に従事する3人のアメリカ兵を描いた戦争映画。

作品世界の背景としては、フセイン大統領が拘束されて、一応の制圧は完了しているが、大統領が居なくなったことにより、各派勢力が台頭、現地では小競り合いが続いている、という状況。

なので構図としてはアメリカ軍VSイラク軍ではないんですね。

仕掛けられた爆弾もアメリカ兵のみを標的としたものでなく、同胞他派をもターゲットとした無差別テロみたいなもの。

つまり爆弾処理班は、どちらかといえば戦後処理にたずさわってる、と言ったほうが近い。

ここを読み違えると作品そのものを誤って解釈しかねないように思います。

なんのためにアメリカ兵は命を張っているのか?という点が肝要。

その先に勝利の高揚はないんですよね。

で、この映画がややこしいのは、爆弾処理を率先してやるリーダー格の兵士がめっぽうな命知らずとして描かれていること。

防護服とか脱いじゃうんですよ「作業しにくい」とか言って。

挙げ句には煩わしいのか、処理班チームとの無線を切っちゃったりもする。

死にたいのか!って話ですよ。

病んでるな、こいつは、と誰もが思う。

そこまでこの男を追い詰めたのは何なんだ?と想像を巡らせると、出てくる答えはただひとつで「戦争という名の狂気」に他なりません。

正義とか博愛では決してなくて、極度の興奮状態に自分を置くことのジャンキーになっちゃってるんですな。

ああ、反戦映画だなあ、と思う。

戦争が終わってすら、その興奮から覚めることの出来ない不幸は語らずもがな。

ところがですよ。

監督はそんな「死にたがり」の主人公を、どこか肯定してる節があるんですよね。

人間味あふれるエピソードを挿入したり。

アメリカ本国にいる時はいい人なんですよ、みたいなシーンを挟み込んでみたり。

最大の不可解な点はエンディングでしょうね。

はっきり言って、病院へ行くなりカウンセリング受けるなりしたほうが絶対にいい人物なのに、そんな彼を、明日なき国に希望をもたらすヒーローのような描写でラストシーンとするんです。

えっ、戦意高揚を旨とするプロパガンダ映画なの?!とわけがわからなくなる。

君もアメリカ軍に入隊して、一緒にやらないか?!みたいな感じなんですよ。

作品最後のシークエンスに、文脈を捻じ曲げたような違和感がある。

そのための「死にたがり」肯定だったの?と思うと、これもう反戦どころか神の視点ですよ。

こういうものだから、戦争は、いいからほら、死にたがりにヒロイズムに酔ってこれからも愚行を重ねりゃいい、みたいな。

なんだこの達観?

いや、それこそが広義での反戦なのか?よくわからん。

私が最終的に思い至ったのは、結局の所、こりゃ戦争エンターティメントなんじゃないのか?と。

もともと男気あふれる娯楽作を得意とする監督ですから。

思想やテーマがありそうに見えて、実はリアリズムに徹することと、ドラマ性にしか監督は興味なかったんじゃねえか?と。

アカデミー賞選考委員も含めて、観客の多くが一杯食わされてるような気がしてなりません。

してやったり、とほくそ笑んでる監督の顔が思い浮かぶのは私だけでしょうかね。

ちなみにエンタメとして解釈するなら、手持ちカメラのブレが私はどうにも嫌い。

今更ビグローがPOVまがいのことやらなくていいと思うんですよ。

あともう少し生々しい爆死シーンがあっても良かったか(特に一人目の隊長とか)と思うんですが、現実に即してるだけにやりすぎるのは危なすぎるか。

名作というより、手腕を評価されながらも大きなヒットに恵まれなかった監督がようやくたどり着いた売れ線の方程式、という気がしますね。

私の中ではやや怪作寄りか。

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